Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

求められているもの、を与えるために

垂れ流しにならないようにこれでも気を付けているつもりだけど、どうも「思索の過程を呈示する」みたいなかたちになるエントリが多い。昨日のエントリに対して、「そもそも事実に向き合うこと自体が困難だろう」と云うようなブックマークコメントをいただいた。それはまぁそのとおりで。でも、その部分については充分な思索が自分の中でもできてなかったりするのだ。
それはそれとして、skywolfさんから理科と科学の違いと云うトラックバックをいただいた。ありがとうございます。

しかし、いわゆる「理科」の教育は、これが抜けていると思っています。教科書は結果は教えても、どうしてそういう知見を得ているのか、というプロセスを教えている暇がありません。従って、いわゆる「文系」の人は、「科学知識」はあっても、「科学的思考」は習っていないではないでしょうか。

これには少し異論があって。なんと云うか、このことは「科学」の文脈以外でも必要な知見で、だからほんとうは科学の文脈以外でも教えられるし、学べることなのではないだろうかなぁ。で、理科でそのことを教えられないからと云って他の教科でもそこが補えないのだったら、そもそもそれは理科教育だけの問題ではないのではないだろうか。

これらを子供の教育、としてみた場合技術的にかなり難しいものであると感じています。科学的態度で推し進めると、ある意味「あきらめ」を教えていくことになりかねません。特に「事実がそうだから」を強くしすぎると、願望というドライブが消えてしまいます。かといって、「望めばなんでもかなう」というのはあまりにも無責任です。ここをうまくコントロールするのが教育だと思いますし、「事実そうなんだけどこうすれば実現する」という突破口を開いてきたのも人間の歴史なわけです。

同感です。諦めるべきところは諦めて、それでも「試合終了」にならないようにするにはどうすればいいのか、を教えることができれば、それはほんとうに教育として価値のあることだと思う。これは教える側にとってもそうあるべきだと思うけど、やっぱり難しいから諦めてしまってるのかな。

科学が示した事実に「あきらめ」を抱いてしまうほど、逆に「でも大丈夫」とささやくニセ科学に付け入られる可能性も出てきてしまうのではないでしょうか(このあたりが小飼 弾氏がいう「代案を示せ」ということだと思っています)。

この辺り、いま現在ニセ科学に対してなんらかの行動を起こしている科学者のみなさんは全員強く意識してはいるわけで。でも、原理的に「代案」はそぐわないし(要するにそれは科学側からも「こっちのほうがもっと大丈夫」と示す行為なので)、戦略的にもどうかな、と云う部分はある。

Noと声を出すのは大事ですが、「願えばかなう」という素朴な願望に対抗していくのは生易しいことではないという前提で声を出さないと相手の心に届かない、というのが今見られている現象ではないでしょうか。

このあたりはぼくなんかも意識していることではあるのだけれど。
だから「かっこわるいなぁ」とか思いながら戦略だの戦術だのと云う言葉を口にしたり、けっきょくこれしかないのかとか思いながら個別での批判をしていたりするわけで。
なんらかの方法論的ブレイクスルーが見つかればいいのだけれど。