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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

スタイル

fuku33さんのこのところのエントリを読ませていただいていて、それがとても刺激的で納得がいって面白いものだったのは、多分ぼくがスタイルと云うものにとても価値を感じていて、それがきっと何かしら(一定の文化圏の中でも)普遍性を持ちうるものだ、とずっと感じ続けていたから、なんだろうと思う。で、ぼくは多少なりともいまの生業のなかでそのことを(ビジネス的に)証明したい、って感じてるんだろうな、と思った。

スタイルは、ここではカルチュアと言い換えても(ぼく的な用語としては)構わない。そこにぼくが見るのはなにかしらの集積と洗練、そして価値観と美意識。相対主義に淫するつもりはないけれど、もちろんそこには相互に認め合うことのできる多様性があるべきで。

この、認め合える、尊重し合えると云うのが、やっぱり重要な部分に思える。そうして、認めること、認められることの価値はやっぱり、個人が(または地域が)選んだスタイル、カルチュアに真摯に向き合うことから生まれて来て、組織されて、そうして強固なものになっていくのかな、なんて考える。

fuku33さんの使う「幻想」や「人工的」と云う用語にはどうしても抵抗感が拭えないけれど、もうこれはどちらかと云うとぼく個人の言語感覚に起因することで、実際のところそれは単純なひっかかり以上のものではなくて。

ちょっとだけ話は変わるけれど、何となく少し前に読んだこの本を思い出した。

ヤバいぜっ!デジタル日本―ハイブリッド・スタイルのススメ

ヤバいぜっ!デジタル日本―ハイブリッド・スタイルのススメ

  • 作者: 高城 剛
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 新書

書評も書かなかったのは、内容がすっきりと腑に落ちなくて咀嚼しきれなかったからだけれど、でもこの本でもスタイルに基づいたブランディングについて語られていて、その部分だけはなんとなく納得した。

それだけ文化には人間の消費行動を左右する力があるということです。日本の消費者も、そういう世界に入っていくのがこの頃の趨勢でしょう。

そうあるべきだし、そうあってほしい、と思う。そうあるためには矜持や(ブクマコメントにあった)気概が必要になるだろうけど。でも、矜持や気概なしに何を成し遂げることができるって云うんだ、とも思うのだった。

(ついでに云うと、このエントリの最初で「一定の文化圏の中でも」と書いたけれど、いまはもう文化圏そのものがいつでも互いに容易に侵犯しあうことのできる時代になっている、とも思ってたりする)