Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

インターフェイスと文脈 (「着る女」筒井ともみ)

例によって本が好き! プロジェクトでいただいた本だったりするのですが、うーむ。


着る女

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/社会・政治

おのれの昔を思い起こしてみる。ぼくが中学生から高校生になる頃は、そろそろアイビーと云う言葉が使われなくなり(トラッド、と云う言い回しのほうが多くて)、でも男の子の格好と云うのはまだボキャブラリーが出揃っておらず、もちろんモード系のハイファッションとかはあったけど身近ではなく、まぁそれでもちょっとずつ国内のデザイナーの手になる服を着ることが普通の男の子どもにも降りて来た時代。大学生の頃にDCブランドと云うのが一般化して来て(いや、あれが一般的と云うのがなんと云うか時代と云うか)、男どもが変に着飾る時代が来たりした。

で、その中でぼくがどんな餓鬼だったかと云うと、そもそもファッションと云うものが受け入れられなくて、いま思うとなんとかしてスタイル、と云うところまで咀嚼しようとしていたのだと思う。まぁそうはいっても田舎の高校生・大学生には自ずと限界があったって辺りが実際のところ。

でも、ぼくは女の子のファッション雑誌を買って読む男でもあって。別に女装願望とかあったって云うのではなくて(無理だ)、それは当時の女性ファッションがとても戦闘的である意味アーティスティックなものだったから。

そう云う訳で、服を着ると云うのが世界と自分のインターフェイスを準備する行為だ、と云う意識は当時からあった。だから服を選ぶのは「見せるべき自分」に沿ったものを選択する行為で、そう云う訳でセンスも何もない頭から入った服の着方をしていた、と思う。あるべき自分の文脈に配置されるべきものとして、着るものを選ぶ。ついでに云うとこの辺りはいまでもそう変わっていない。

で、ひっくり返すと「どんなものを着ているか」は「自分の中身と世界の間にどんなものを挟ませるか」と云う行為で。とても当たり前の話だけど、着ている服を通して、その人間が自分をどんな存在として認識しているか、はやはり見える。そう云う訳で、この本は服についての本だけれど、同時に著者がどんなふうに育ち、自分をどんな人間であるとして認識して来たか、と云うことをとてもストレートに語る本になっている。

作者の時代とぼくの時代には若干の距離があって、その間に「着る」と云うことの意味もいくらかの変化があるようだ。彼女にとって「着る」ことは、下界との間に結界を準備することではなく、もっと柔らかに自分の身体を世界に対してくるむことのようだ。その違いはジェンダーによるものかもしれないし、この本に描かれているような、おそらくその時代においては相対的に「着る」ことに恵まれ、相対的に豊かでファッショナブルな環境で若い時代を過ごしたことに由来するのかもしれない(まぁ多分両方)。

女性がファッションを語る本を読むときに、そこにある柔らかくてかわいらしくて、少し生々しい世界をちょっとした距離の向こうに感じることがある。それと近い質のものがこの本にはあったけれど、同時に脚本を生業とする女性の明晰な視点も感じた。そうして、その背景にある時代。

とてもへんな印象だけれど、なんと云うか、ぼくは小説やエッセイで景山民生が語った「あの頃」に近いものを感じたのだった。