Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

世界をかたちづくる、もの

私事ながらなんかちょい弱ってたっぽい。ので、ちょっとリハビリ。
非常に個人的な自分語り臭いエントリになりそうなので、先にエクスキューズ。そういうものがあまりお好きじゃない方にはあらかじめごめんなさい(エクスキューズといえば、自分で自分の表現に「芸風」と云う言い方をすることは、書き手から読み手側にメタ的な立ち位置の存在を最初から提示して読み方のバイアスの設定を要求する行為のような気がしてあまり好きじゃない。好きじゃない、と云うだけでよしあしを云々するつもりはないけど、ある種の潔さの欠如を感じる)。

夕凪の街桜の国

夕凪の街桜の国

  • 作者: こうの 史代
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2004/10
  • メディア: 単行本

なんかもう絶賛が出尽くしていていまさら語られるべきこともなさそうな本だけれど。で、いまさらこの本を挙げて以下の文章を綴るのに抵抗がないわけではないけれど。

もう何と云うか、ゆるく雑に垂れ流す。

状況と云うもの。辺見庸「反逆する風景」のまえがきで述べた「風景」と云うもの。前提として意味づけされていない、ぼくたちを取り囲む統一されていない断片の集合。

ぼくたちから見て、その断片は「未来への希望を感じさせるもの」だったり、「愛を実感させるもの」だったり、「感謝すべきこと」だったり、「誰かに『死んでしまえ』と思われた記憶」だったりする。

矛盾する断片のなかで、その矛盾する断片の集合体をひとつの「世界」として理解しようと試みながら、生きている。でも断片はソリッドな断片で、だから当たり前だけど「相互理解」に至る仕組みなんてビルトインされていない。信じようと拒もうと、断片はそこに存在し、ぼくらを取り囲む。

どうして「死んでしまえ」と思われたのか。
「夕凪の街」のなかで、皆実の人生とその物語は、その物語のなかで記憶と云う場所に位置づけることができたはずの断片によって断ち切られる。なぜ、断ち切られなければいけないのか。

風景があるだけで、その風景は答えを与えてくれない。だから、それを理解するために可能な行動は、理解しようとするぼくたち側からのアプローチだけだ。

理解しようとするアプローチは、物語を生む。物語はいつも大事で必要なものだ。それがなければ、ぼくたちは自分のいまいる位置を自分で特定することができない。意味を推し量ることができない。価値を感じることができない。

ぼくたちは物語を作り出す。あるいは、与えられた物語を信じる。

でも、物語に対してぼくたちは慎重でなければならない、と思う。
物語は力を持ち、力は断片を作り出す。物語を信じる力によって、断片は強固になる。そしてそれは寄り集まって、ぼくたちを取り囲む世界をかたちづくる。

「信じること」「愛すること」が作り出した断片は、けして優しくはない。多くのひとの物語がそこに集約されていれば、それだけソリッドになる。それはひとを苦しめることも、誰かの柔らかな物語を押しつぶすこともある。
だから、「信じること」「愛すること」は、そのことが力を持つ過程でつねに疑われなければならない、と思う。

懐疑の介在しないものは、信じるに値しない。
信じることにおける「無邪気さ」「素朴さ」が、ぼくには許容できない。それらが悩み、苦しみ、疑われる過程を経ずにソリッドな断片に結実することを、見過ごしたくない。それは、その物語を受け入れた誰か(や、誰か「たち」)を救うかも知れないけれど、同時に誰かを——その物語を——打ち砕く断片を作り出す可能性を持つから。

「夕凪の街」のなかで、10年を超える懐疑と違和感のなかで細々と紡がれてきた皆実の物語は、いとも簡単に押しつぶされる。懐疑と違和感から開放される可能性を見出した、ほとんどその瞬間に。ずっと存在し続けてきた断片のひとつに。
その断片を生み出したのは、誰の、どんな物語なのか。どんなことを信じた、誰の。

物語を誰かと共有することは、救いの感覚をもたらすのだろう、と思う(なんかひとごとみたいだけど、実感できる)。誰かの物語を受け入れて自分の物語を補強することは、安心感と自己肯定に繋がる。
おそらくそのことは、自分自身をとても力づけてくれる(ときには麻薬的に)。
でも、多分忘れてはいけないんだ。そうして力づけられるのは自分と、自分と物語を共有している誰かだけだと云うことを。そうして生み出された断片が、たとえそれが「自分にとって」どんなふうに感じられようと、それが例えば「世界」にとってつねに「善きもの」たりえるとは担保されていないと云うことを。

誰の物語も、皆実のそれのように奪われ、断ち切られる可能性を持っている。
あなたを(ぼくを)救う物語が、誰かの物語を断ち切る断片を生み出す可能性も。
このことを考えることは、苦しい。苦しいけれど、それは必要なことだ、と思っている。自分のための物語の意味を、価値を、問うために。

だから、そのことについて考え続けることを放棄した「無邪気さ」「素朴さ」を、ぼくは許容しない。
考えていないこと、知らないことによって免責されるものは、一切ない。イノセンスを前提にした「信じること」など無価値だし、そのことに支えられた「善きもの」なんか存在しない。
物語を信じたことによって作り出された断片には、信じた人間すべてに責任がある。

ここしばらく、「お金」と云うとても大きな物語と、その作り出す断片と、断片の世界に対する影響について考えていた(ここまで書いてきたことよりもう少し具体的に)。fuku33さんの近代への懐疑「司馬遼太郎が考えたこと 10」やTERRAZIさんの重度障害者の命の価値は「ゼロ」なのか?、novtanさんの自己責任という言葉なんかの各エントリに含まれた考察や示唆を援用しながら、自分の文章を作ろうと思っていた。

でも、それをできるまでにはまだ回復していないようで。
そう云うわけでリハビリの過程の垂れ流しでした。