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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

世界の断片と、物語 (「我々はどこへ行くのか」川良 浩和)

いや、面白かった。面白かった、と云う云い方はともすれば不謹慎だと思われるかもしれないけど、正直。


我々はどこへ行くのか—あるドキュメンタリストからのメッセージ

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書評/ルポルタージュ

これも本が好き!プロジェクトからの頂きもの。

どうしても、「行って見て来た」系のノンフィクションが好きだ。それこそ辺見庸から宮嶋茂樹まで(別に両者が両極に位置すると云いたい訳ではない)。

もちろんそこにはぼくの知らない世界がある。でも、その知らない世界は、このぼくの「知っている」世界と地続きだ。知らないけれど、でも実在する暮らしと、そこで起こる(起こった)事件。

ぼくが学生から社会人になる時期の前後数年は、ずいぶんと世界でいろんなことが起きた。昭和の終わり、ベルリンの壁の崩壊、天安門事件。そして、ぼくは新入社員として配属されたディーリング・ルームのモニターのCNNで、湾岸戦争の発端を見た。それはどれも生々しい出来事で、でも世情はどこか絵空事臭く浮かれていて、なんと云うか、どんなことが起きても不思議じゃない(そうして、どんなことが起きてもそれはリアルじゃない)ような空気感があった。不思議な、不気味な時期。

この本に扱われている内容はその時代を軸に、時系列を前後に伸ばしていく。キューバ危機から、9.11まで。その間に筆者が制作したNHK特集を題材として、こまぎれの、密度の濃い事柄が積み上げられていく。

事柄は断片で、と云うことは要するに世界は複雑に影響しあう断片の重なり合いで出来ている。いろいろな条件を緯糸に、時系列を経糸に世界は全体性をかたちづくっているけれど、断片は断片に過ぎない。ぼくらが把握できるのも、1時間のドキュメンタリー番組で扱えるのも、ひとつひとつの断片だけだ。でも、それは孤立した断片ではない。いずれにせよ事実として世界はひとつなのだ。

筆者は断片の組み合わせを貫く物語を準備する。それは、ばらばらの断片から照らし出された「戦争」だ。この物語を手がかりに、読み手であるぼくたちはそれぞれ濃厚でソリッドな断片から、全体性を推測して読み取ることが出来る。

そうして、そこから何を受け取るかは、ぼくたちにゆだねられる。
そう、委ねられるのだ。作者の「物語」を受け止めた、そのうえで。

ノンフィクション、と云うものの値打ちは、きっとそこにあるのだろう、と思う。