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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

だれが「科学万能主義」か

どうも一部のひとには、ぼくみたいに「科学以外のロジックでニセ科学を批判する」スタンスは非常に評判が悪い。ぼくはぼくなりの動機で批判を行っているんだけど(その動機についても都度説明しているつもりだけど)、まぁ心情的には分からない訳でもない。
以前、重要な示唆をいただいた檜山正幸さんが、[雑記/備忘]なにかを主張すれば、なにかを否定することになると云うエントリで、「『ニセ科学批判』批判」についてちょっと触れられている。基本的には、ぼくが自分の思考の整理にとても役立てさせてもらったエントリの延長上にある内容なんだけれど。

「水は言葉を理解する」を正しいとするような“科学”は、現在の科学で正しいとされている大部分の言明を否定します。否定されてしまった現代科学は、コンピュータ、インターネット、携帯電話、その他の通信、交通、建築、薬品、食品、… などなど、現代の物質文明を下支えしている基盤です。

ニセ科学を肯定するのに「科学万能主義」を持ち出すひとがいる。でもそれって、日常のなかの科学を意識しないで呑気に科学万能主義を批判することが出来ている、と云う時点で、すでに無意識にとても「科学万能主義的」だったりするのだ。

あなたの素朴な言明により(必然的に)否定される理論体系の代替物を提示できますか。あなたのロマンチックな主張を通すためには、どれほどに現実的な犠牲が伴うか、ちょっと見積もってみませんか。

日常の暮らしにおいて科学に基本的な信頼を置く(あくまで「基本的」な。これは盲信を含まない)ことで、日常生活はたいそうコストの安いものになっているはずだ。ニセ科学の可能性を肯定するひとは、自分が何をトレードオフとして差し出しているのか、と云うことまで、突き詰めて考えているのだろうね?

とりあえずある種の素朴さは、ある種の「善意と自認するもの」と同じくらい悪質だと思う。「無知であること」「考えないこと」は、なんらそのひとを免責しないのだ。