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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

論点

週末にquantaさんの[科学]ニセ科学、疑似科学論議よりも具体的な批判をと云うエントリを読んでいたのだけれど、こちらの読解力の問題もあってかどうにも難しくてちょっと言及を控えていた(あいだにTAKESANさんが整理と云うエントリで取り上げられている)。ちゃんと内容を理解できているのかどうか自信がないのだけれど、どうもぼくのような人間のことも云われているような気がするので、言及を試みる。

この方は、「ニセ科学」と云う用語を用いることに対する警告を発していらっしゃる。

各々の記事で挙げられている例はかなり性質の異なったものだと思う。しかし同じニセ科学というカテゴリーのもとで取上げられ議論されており、それぞれの記事でも他の具体例はいっさい挙げられていない。私はこの種の論議は個々の具体例で具体的にどこに問題があるかを指摘するより他はないので、「ニセ科学」といったカテゴリーで一括して批判するのは粗雑な議論になりがちだと思う。

例えばここを含む、人文系のアプローチに基づくニセ科学批判を行っているブログは、「ニセ科学」の用語を菊池誠教授の定義「見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの」にまず準拠している。そう云うわけでこの用語についての議論はまず「では科学かどうかを判別する基準はどこか」と云うことになる。

ここについてもあちこちで議論されていて、まぁ暫定的なfaqが整備されていたりはしないものの、議論におけるおおむねの合意はある。ざっくりと「既知の科学と相容れないもの」「従来の科学の方法にのっとっていないもの」なんて云うところが基準となる。

で、ぼく(たち人文系)は、ニセ科学が蔓延する社会的背景とそれを支える心性についてあれこれ考えてきた。で、なんとなく2つのパターンに分類できるように今は思っている。

1)呪術
水からの伝言」や各種の「波動」は、共感呪術の原理にのっとったパターン。言語的な錯誤を含めた「類似の呪術」と「接触の呪術」を、科学的なジャーゴンを使って説明するもの。ホメオパシーもそうか。
で、この種のニセ科学の信奉者は「それってニセ科学だよ」と指摘すると、「科学万能主義の世の中っておかしいと思うの」とか言い出す。誰も科学万能主義なんか信奉してないっちゅーのに。
2)魔法
納豆とかの一連の捏造関連にはこう云う共感呪術的な原理じゃなくて、代わりにそこにあるのは「現世利益」を提供する、まぁ魔法。えっと、クラークの「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」をひっくり返して、「魔法に見えるだろうが高度に発達した科学なのだ(だから信用しろ)」って感じですな。えぇと、これを裏返すと「ゲーム脳」タイプが生じるのかな。基本「信じたいもの」に「理解できないけどオーソライズされているような権威」を与えてあげる手法。
で、このパターンだと「それニセ科学」って云うと怒り出す。「騙された!」って。

もちろんこのパターンのいずれかに分類できるわけではなくて、両方を含むものもある(上記で挙げたものも含め)。どちらをどれだけ含むかでいろいろとニュアンスが違っては来るけれど、その説得力の源泉が「科学的なるものへの信頼(および科学の文脈に乗らないものに対する軽侮、または過剰な重視)」にあることには違いがない。

とまぁ、この辺りがいま「ニセ科学」として批判されているものの基本線。ぼくのような在野の人間を含む人文系も、菊池教授や田崎教授のようなばりばりの物理学者も、ちょっと中間に位置するような立場の左巻教授や小波教授(これって失礼な云い方じゃないつもり)も変わらない。

で、上記の1および2のパターンを「科学」に含めない限り、科学を(通常に使われる言葉としての用法をはみ出さない限りにおいては)どのように定義しても「ニセ科学批判」は成立するわけで。

「科学」という一つの言葉は様々なシチュエーションで、様々に異なった範疇のなかで様々な意味を持たされて使われている。

でもあまり、呪術や魔法を科学とは云わないと思う。と云うか、そこまでを含みうると云ってしまうと、なんと云うかもう言語を使った対話そのものが難しくなる。

今は、科学的であるか科学的でないかという議論も必要かもしれないが、それよりも技術として有効かどうかが重要であり、さらにそれがどこまで真実に迫っているか、多面的に判断するより他はないと思っている。

そりゃまぁ科学がすべてではないし。でもこんなふうに口にした瞬間に、科学としての価値判断からは逸脱するわけで。それに、「精神分析は科学ではない」と云う批判は実際に存在しているとは思うけれど。

要するに完全な科学とか非科学といったものはないという言い方もできる。科学と非科学との間には科学性と非科学性とを様々な度合いで含んだゾーンがあるといった表現も出来るかもしれない。

そりゃまぁできるだろうけど。でも、そんなことはみんな承知の上で議論しているのだけど。

ただこのような表現は図式的であり、固定化して使われると問題がある。「ニセ科学」とか「疑似科学」といった、明確に定義された概念があると思わせるような言葉はそれ以上に問題が大きい。

いちおう、上記の定義は議論の場では共有されているわけで。「オレ定義」は存じ上げませんが。

大切なのは捏造といった倫理的な問題がないかどうか、どれだけ真理、真実といった近づきがたいものに迫っているかということで、科学かニセ科学かという問題ではない。もちろん、より科学的であることによって、より真実に迫っているのであればそれは結構なことである。

あなたの問題意識のありかは分かりました。でも、すべてのひとがそれだけの問題だと考えているわけではないのです。