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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

世界フィギュア女子シングル

今年の安藤美姫には、ちょっとわくわくするものを感じていた。結局、なんと云うか、期待以上の結果が残ったわけだけれども。

実のところ、ぼくは例えば、観るスポーツとしての球技にはほとんど魅了されない。そこに見える個人はやはり集団のなかの個人で、そこにあるのは自意識よりもやはりむしろ社会性で。だから、云ってしまえばぼくには「組織の力学のなかで上手にこなしている子供の遊び」にしか見えない。格闘技が好きなのも、それはやっぱりそこにその個人が見えるから、だと思う。

で、そう云う意味ではフィギュアスケートもほぼ格闘技みたいなもので。ただ、採点競技特有の難しさはあるけれど。

安藤選手は世間に引きずり回され、振り回され、自分を見失った状態でオリンピックと云う特殊な状況に叩き込まれた。どうすればいいのか分からなくなっても、少しも不思議じゃない状況。

フィギュアスケートは基本的に自分と戦う競技だ、と思う(と云うか、これは荒川静香の言葉から持った印象だけれど)。でも採点競技である以上、そこと採点基準との折り合いに伴う葛藤が生じる。そのうえで、安藤選手はマスコミだのナショナリズムだのとも戦わなければいけない状況にトリノで放り込まれた。テレビ好きな善男善女は競技者としての自分と戦う彼女にどさどさと「国の代表」を無邪気に背負わせる。混乱しても不思議じゃない。

でも、今年は違った。最初から、彼女は戦うべき相手を間違わなかった。「失望した」善男善女のみなさんの注目が逸れたのも、いくらかは幸いしたのか、とも思う。

ぼくは彼女の、自分を信頼できたときの表情が好きだ。肉食獣的な、好戦的な笑顔。今年のスケートアメリカでそれを見ることが出来たときに、もう彼女はなにも見失っていない、と思えた。

自分で自分の納得できるだけの力を出せること。どんなことに対峙していても、これ以上大事なことはそれほどない。メダルだろうと世界女王の称号だろうと、結局はそれについてくるものだ。たった1年間でのこれほどの成長を見ることが出来たのは、なんだか嬉しい。

今年の世界選手権の結果は、浅田真央にもプラスになると思う。競技者としての自分を確認することが出来るだろうし、この結果によってテレビ好きの善きナショナリストのみなさんの目が逸れれば、彼女も自分と戦う時間を許されるだろう。

(で、再確認したのは、キミー・マイズナーを見るときに自分の目がいかに曇るか、と云うことだったりする。もう彼女はどんな滑りをしようがぼくには冷静な視点はないようだ)