Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ひとたらしめる、もの

壊れた人間を見るのは、うすら寒い。

そのうすら寒さは多分、自分が自分自身であることを維持する、その営みが薄い皮膜一枚であることを気付かせるから、なんじゃないかと思う。自分が自分であること、は実は自明ではないことに、その瞬間に思い至る。これは、恐ろしいことだ。

結局のところ、自分を自分たらしめるために、ぼくらは常時努力している。連続的な自分を確保するために、つねに問い続け、自己像を明確にしようと足掻いている。どうしてか、自分が自分であることはぼくたちにとってひどく大事なことだ。

だから、それを失ってしまった人間を目の当たりにすると、ぼくたちは狼狽し、そうして恐怖に襲われる。ぼくたちの認識できる世界の内側では、それは人間のできることには見えない。
少なくとも、自分を人間と認識している人間には捨て去ることができないと思えるようなものを、彼/彼女は捨て去っている。

ましてや、ネットの上では自己の連続性・同一性は(自分の行う表現がそこで露出されるすべてであるゆえに)意識して維持すべきものだ、とぼくたちは考え、振る舞う。他人を詐称すること、ネットの上で信頼への希求を抛つことは、そのまま自分の人格を放棄することだ。
人格を放棄してみせてしかも絶望しない人間をみると、ぼくたちは「人間であろうとすること」がいかに薄っぺらな皮膜に過ぎないかを感じ、おのれの危うさに思い至り、根源的な恐怖を感じる。

そう云う意味で、壊れてしまった人間は、強靭だ。それは、おのれの尊厳を捨て去って得られる強さだ。羨みはしないけれど。