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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

見慣れた(意識しない)段差 (「空中スキップ」バドニッツ)

これも『本が好き!」でいただいた本。短編集でつるつる読めるけど、1篇1篇が結構、なんと云うか、腹にたまる。

空中スキップ

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書評/海外純文学


多分ぼくらの世界って、結構激しくでこぼこしているのだ。でもいちいち段差に躓いていたりしたら、日々をなにごとでもないように繰り返すことなんて多分大変すぎてできやしない。疲れてしまう。だから、ぼくらはどこかで自然に、段差をやりすごすすべを身につけて来たんだ、と思う。でも、ぼくらの世界は実際は意識するよりも遥かにエッジの立った個々の事柄のひとセットで、それをぼくらは自分の中でつなげて、滑らかな地続きとして認識して、その中を歩いている。

個々の事柄のエッジを、不連続性を意識したときに、ぼくらはちょっとした混乱に襲われる。それは現実の中にまさにあるのだけれど、ぼくらが世界を見るときに自分の内側で処理して、まともにとりあわないことにしてしまっている部分。

この作品集は、そう云う感覚がたっぷり味わえる。作品世界とそこで起こる事柄は地続きで、でもそれぞれの事柄はそのエッジを強烈に叩き付けてくる。ぼくらは処理できず、混乱する。

でも、この本は短編集だ。だからそれぞれの混乱は、比較的短い時間で終わる。そうして、そもそもこれは小説だ。だから、ぼくらは安心して混乱に身を任せて、その感覚を楽しむことが出来る。だから安全。

でも、その混乱はリアルだ。たぶんそれは、ぼくらの(日頃は見ていない、なまの)日常も、気付いていないだけで同じような混乱すべき事柄をたっぷり含んでいて、ほんとうはぼくらはそのことを知っているからだ、と思う。

辺見庸はそのルポルタージュ「もの食う人びと」は彼の経験した事実をそのまま写し取ったかのようなリアリティあふれる名著だと思う。でも、そこに書かれたのは、それでも剥き出しの真実ではない。どうしても文脈に乗らない、収まらない生の「風景」を残すために、彼は「反逆する風景」を書き足した、とその前書きで語る。ぼくたちが自分の中で処理し、文脈をつけて「日常」に押し込めているセカイの、なまの風貌。
それを、多分ぼくたちはこの小説集に収められたひとつひとつの短編から、感じ取っているのだと思う。

23の短編が収められているけれど、ぼくはギャップのかっとびかたが派手な作品の方が好き。「犬の日」や「チア魂」みたいな。でもこれはまぁ個人的な好みだと思う。

なんと云うか、アメリカ小説を読んだ、と云う気がした。なぜだろう。そんなにアメリカ人作家の短編集をたくさん読んで来たわけでもないのに。