Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

救う、こと——続き

いや、別に続き物として企画したわけじゃなかったんだけれど。
それにしてもosakaecoさんのエントリは示唆に富んでいてありがたい。やっぱり学術の現場にいる方の思索は濃い。失礼な言い方なのかもしれないけど怪我の功名でちょっと得してしまった気分。
で、昨日「トンデモ嫁に関するフィールドワーク」と云うエントリに触れた。で、うだうだと煮え切らないことを書いていたのだけど、そこにトラックバックされたNATROMさんの代替医療は自己責任でと云うエントリを読んでちょっと頭が整理できた。

ご家族は、心から患者さんの健康を願い、それをサポートしようとしたのだろう。ただ、はっきり言えば、素人の無責任なサポートが人を殺すことだってある。むろん、医療には「科学的に正しい治療」だけでなくカウンセリングや癒しが必要であるし、患者の人格にも注意を向けろという意見はよく分かる。我々医療者も、患者さんの健康を願い、できる限りサポートしたいと願っている。しかしながら、「ミキプルーンのひと」と医療者の違いは、医療者は医学的に正しい説明を行う義務を負っているという点である。

NATROMさんはインフォームド・コンセントとの絡みでお話しされているが、科学の側にある医療とニセ科学の側にある代替医療では、そもそも背負わされている期待と責任の質がまったく違うのだ。

ニセ科学を信じる側は科学万能主義を糾弾するけれど、そもそも科学者は科学万能主義など信奉していない。そもそも現時点での科学が万能なら科学者はみんな失業する(と、これは確か、かもひろやすさんの言い回しだったような)。

どうも、科学に万能であることを求め、万能でないことに失望してニセ科学に走る、と云うフローが存在するような気がする。このフローに乗っているとき、おそらくひとは科学に、自分の代わりにすべてを考えてくれ、解決してくれるようなデウス・エクス・マキナであれ、と求めている。

もちろん、そんなものはない。
科学は便利だけれど、でもその体系は完成していない組体操のようなもの。頑丈な部分もあれば脆弱な部分もあるし、大事なところをごく少数で受け持っているケースもある。そうして、この組体操は完成品ではなくて、より堅牢なものとなろうとして日々模索している。原理的に、科学はデウス・エクス・マキナの役割は担えない。

で、実際のところそれは結構上手く機能していて、ぼくたちの生活を支えている。このことをまず理解し、科学を信用しないと、生活そのものが成り立たない。それこそ、科学に一定水準の信頼を置く事を前提としないと、ニセ科学を信じる余裕さえなくなってしまう。考えてみるとぼくはこのことについて既に(やっぱりNATROMさんに触発されて)このエントリで書いているし、檜山さんにかこつけてこことかここでも書いている。

科学が自分の問題を代わりに解決してくれるわけではないことに気付き、科学が万能でないことに憤り、そうして科学では担ってくれない、欠落した部分を埋めてくれるなにものかを求める。そもそも科学と云うのがどう云うものかをいくらかでも理解していればこんなフローには陥らないのだろうけれど、でも人間の心理の動きとしてそれほど不自然ではない。そもそも誰か、または何かに代わりに問題を解決して貰おうとする発想には問題があるし、ぼくの矛先は主にその部分に向かっているけれども(その意味では小飼弾さんの、「科学側が暫定デウス・エクス・マキナを提供するべき、と云う主張にもくみしないけれども)、そこについてはおそらく指摘したり批判したりするだけでは実効性のないなんらかのメカニズムが働いている場合があるのだと思う。

ただ、その「欠落した部分を埋めてくれるもの」には、多くの場合科学ほどの「誠実さ」がビルトインされていない。
医師は問題解決が可能な範囲を見極め、それを患者に告知し、可能な範囲で努力するのが「当然」であり、それができなかった場合には訴訟のリスクさえ負っている。どこぞの波動物理学者(って結局なんなんだ)やホメオパスが、同じだけの責任を負って行動しているのか。そう思えるとすれば、その根拠はなんなのか(と云うか、何をもってして信じるに足るだけの根拠を持っていると思えるのか)。

多分ここから先は、文系的な知の出番なんじゃないかな(ごめんなさい、ちょっとまだ結論に辿り着けない)。