Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

新聞記者の使い方

もうなんか、身も蓋もない書き方をしてしまおう。
先日の理系白書を受けた理系白書ブログのエントリ(どうせトラックバック飛ばないんだろうからリンクしちゃう)メディアと科学のコメント欄で、例によって元村記者のスタンスが追求されている(どうでもいいけどこれだけ剥き出しの書き方をする柘植さんもあんまり他では見られない)。
でも、思うんだけど。新聞記者って、いまや要するに「戦車に乗った馬○」みたいなもんじゃないかって。

だいたいもう報道に携わるものの倫理がどうのとかってすでに阿呆陀羅経で、要するに連中は権力を持って長いので腐敗していて当たり前で。本人たちが気付いていなくても腐れている、ってのも腐敗のパターンとしては存在するはず。
でも、その力ってのは凄い訳だ。どこでもここでも正義の建前を振りかざして突入していけるし、てけとーに書いたことにもぼくらみたいな泡沫ブロガーが必死になって考えたことの数万倍のリーチがあるし、既得権益をがっちり掴んでうはうはの収入を手放さないでいられるくらいの政治力もあるし。

で、そう云った「戦車に乗った馬○」に対して対処するためには、「反省と自覚を促す」とか云うのが有効な訳じゃないんじゃないかと。要は大砲の弾があさっての方向に飛ばないで、ちゃんと敵陣に着弾してくれればそれでいい、くらいに割り切った方が、前向きなのではないかなぁ。

なにしろぼくらが竹槍を持って苦戦している戦場に、戦車を持って来てくれたんだから。当たりゃでかいんだから。そこでいろいろ悩ませたりしたら当たるものも当たらなくなっちゃうし、考え込んで手を止められたりしたらそれこそ「休んでいるのとそっくり」になっちゃう。あんまり云うと砲塔をこちらに向けられちゃうよ。

いまのところ砲塔がちゃんと敵陣を向いているみたいだから、最低限それでいいんじゃないか、と思う。砲塔が外れたところを指しそうになったら、もうそれはぼくらが全力を尽くして戦車から引きずり下ろしにかかればいいわけで。
ぼくら竹槍部隊はそもそも自分をちゃんと律していないと戦えない部分もあるけれど、戦車にはなにしろ破壊力があるわけだから、乗ってる奴が多少あれだろうとちゃんと有効活用しないと。

そう云う訳で元村記者、応援しています(うわぁ)。