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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

権威のメカニズム

などと云うことを、ぼんやりと考えた。
権威って、どこから来るんだろう。

ぼくらがあるひとの主張の当否を推定するときには、そのひとに「権威があるかどうか」と云う物差しを結構使う。要するに、そのひとの云うことが傾聴するに値するかどうか、と云うことの判断材料として、権威を使う訳だ。
もちろんそのひとの主張の内容の当否とそのひとの権威は直接結びつかないのだけれど、でもぼくらはある意見を聞くときにおおむね自分の持っていない知見(要するに「自分ではよく知らないこと」)を求めている訳なので、いちいち意見の当否を判断するのに判断材料を全部自分で仕入れてくるわけにはいかない。
そんなことをすると能率が悪くて仕方がない。だからそのひとの経歴(どんなことを学び、考えて、そんな主張を持つに至ったのか)とか、そのひとの権威を参考にする訳だ。

さて権威だ。そのひとに権威があるかどうかを判断するには、まずそのひとが「権威を持つ組織」に認められているかどうかが基準になる。
じゃあ「権威を持つ組織」をどう判別するかと云うと、その組織にどれだけ権威を持つひとがいるか、その組織がどれだけの権威を持つひとに認められているか、で判断することになるだろう。
要するに、権威は屋上屋を架しながら、そのサイズを拡大して行く、と云う構造にある訳で。拡大すると、それは「大きな権威」になる。もちろんその権威の性格もあるだろうけど、おおむね大きな権威ほど判断の物差しとして信用できるものになるわけで。

で、これって何かに似ているなぁ、と思った。信用だ。
経済の規模は実際に流通している通貨量だけで推し量られるわけではなくて、その上に信用創造がなされて拡大して行く。互いが信用に信用を重ねて、拡大して行く訳だ。もちろんその基盤になるのは実際の生産能力で、生産能力に対応する規模の信用のサイズならまぁ健全と云えるんだろう(ちなみにこの生産能力はその時点のスナップショットではなく、将来にわたる生産能力の向上も織り込む。株価の形成のベース)。
例えばこの信用の基盤が地価だったとすると、本来「その土地が生み出すべき価値の(将来にわたる)生産能力の推定」に応じた信用の創造がなされ、それが経済の規模になる。
で、この推定が甘くなって想定しうる生産能力を超える信用が創造されてしまうとバブルが発生する訳で。で、「まじめに計算したらそんなに生産できないんじゃね?」みたいになって、信用のコストが上がったりすると崩壊する。

話を権威に戻すと、例えばアカデミズムの権威の源泉は、学術的生産能力なんだろうと思う。優秀な大学は学術的生産能力が高いから優秀な訳で、だからその大学は権威を持つ。そこの卒業生とか、そこの先生とかも。この学術的生産能力をどうやって計測するのか、と云う議論はもちろんあるだろうけど(計測基準が浮動することに伴ういろんな問題もあるんだろうけど)、仕組みとしてはそう云うことだ。
で、生産能力はどこから生まれてくるかと云うと、ひとつには優秀な資源がそこにあるかどうか、と云うことになる。「いい大学」と云うのは権威のある大学で、いい大学に行きたいひと(学生にしろ、研究者にしろ)はその権威で判断して選ぶ訳で、でその大学はいい大学に行きたいひとのなかから優れたひとを上から順番に選ぶ訳で。
こうやって権威のエコシステムができあがる(で、ついでに云うと効率を考えれば人的資源以外のものもいい大学につぎ込む方が経済効率がいい訳なので、他の資源もそこに集まることになる)。
信用と同じように権威も権威としての評価が下がると資源が集まってこなくなるので、権威を維持するためには生産能力の維持向上に努めることが必須だ。

さてさて。
この権威を判別するのは、実はそんなに簡単じゃない。例えば日本では東大に一番権威があって、それから京大だの阪大だのがあって、そんでもって大学の権威のピラミッドが構成されている。でもアカデミズムは大学だけじゃなくて、大学は大学と云うだけでピラミッド上高校や中学よりも一般的に上になる。
日本国内だとそれでも何となくこのピラミッドのどこにどの大学があるのか分かるけれど、外国の大学になるともうよく分からない。その国の名前とか首都名がついた大学ならなんとなく権威が高いんだろうな、と云う程度の推測に、一般的には留まる訳で。

江本勝だの七田眞だのって云う手合いが外国の大学の学位を買ってきて名乗る仕組みは、結局のところここにある、ってことだ。要するに、その学位の裏付けになる権威がどんなものなのか、よく分からない辺りを狙っている訳で。

江本勝の場合、ぼくたちに普通に分かる権威の範囲で云うと学術的な経験は横浜市立大学文理学部卒で終わっていて、あとはスリランカから買ってきたらしい代替医療学博士の称号くらい。

七田眞は米国ニューポート大学日本校と云うディプロマミル(学位販売業者、所轄官庁の認定のない自家製の学位を販売している)の教育学教授で教育学博士らしいが、どこでその学位を取ったのか公表していない。調べたひとによるとどうやらニューポート大学関連の組織から買ってきたらしい
ついでに云うとこのひとは元皇族が理事に名を連ねていると云う極めて呪術的な権威の源泉を持つ賞とかを受賞している。

この辺り、「大学」とか「学位」とか「賞」にまつわる「何となく権威がありそう」と云うイメージから、自分の主張に伴う権威を生成している、と云う仕組みになる。学術協会とか云うともうほとんど一般のひとには実態が分からないので、多分もっと手軽に権威のエコシステムを演出できる。

まぁでも、権威なんかどうでもいい。主張の中身さえ優れたものであれば。もちろん。でも、その主張の中身を中身だけで評価できるほど、ぼくたちはなんでも理解している訳ではない。自分でそれが判断できるほどいちいち勉強するのはとても不経済だ。
権威の物差しなしで自分の知らないことに対して完全に客観的な評価を下せるとしたら、そのひとは多分天才だ。なにしろ権威は、数多くのとても頭のいいひとたちの長年の積み重ねの成果なのだから。
天才でないとしたら、それはただの思い上がり、自己認識不足だ。

だって、あなたたちの信頼している「波動物理学の権威」江本勝だって、「教育学の権威」七田眞だって、自説を信用してもらうためにわざわざお金を出して学位を買ってきてるんだよ?