Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

目的論的自然観

渋研Xの「実のところ「ニセ科学問題」とはなにが問題なのか」と云うエントリを読んでいて、あれこれ考えながら、そのままTAKESANの「論理・科学・感覚」と云うエントリに辿り着いた。そこで使われていたのが、表題の言葉。正確に意味するところは知らないのだけれど。

高校生の頃、集団結婚式で有名な韓国発の某キリスト教異端的新興宗教の布教拠点に行ったことがある。その宗教(当時は今のように「教会」を名乗らず、「運動」の名で呼ばれるのが一般的であったけれど)の信者にされつつあった友人に誘われたのだ。

マンションの一室で、出された飲み物を飲み、目の前に置かれたお菓子をぼりぼりと齧る無作法な高校生のぼくに、大学生のおにいさんたちが一生懸命いろいろとお話をしてくれる。説得と云うか、布教と云うか(折伏だったかも知れない)。こっちは妙に知恵のついた(と云うかその頃にぼくは菊池誠をはじめとするあんまり普通じゃないおにいさんおねえさんが周りにいたので、なんと云うか少なからず鍛えられてる)ちんぴら高校生だったので、新興宗教にいかれてる大学生なんて屁理屈ディベートの相手ぐらいにしか思ってなかったりもして、実際のところ結構楽しんでお菓子もたっぷり頂いて、彼らが盛んに奨めるビデオも観ずに晩ご飯前にお家に帰ったのだけれど。

まぁもともと、そんな悪辣な心づもりで云った訳じゃない(とは云え多分ビデオはどちらにしろ観なかっただろうけれど)。でも、あきらかにこちらの態度を変えた発言を今でも覚えている。その男子大学生は、ぼくの手にした飲み物の容器を指して、こう云った。
「例えば、そのカップ。飲み物を飲むために作られたものだろう? すべてのものは、目的を持って作られているはずだ、と思わないか?」
馬鹿げた話を滑らかに云うんじゃない、と思った。

この地球上のどんなものも、それ以外の「何か」や「誰か」のために生まれてきたはずはない。

自分が誰かのために作られた、と考えることはとても楽だろう、と思う。でも、ぼくたちはそうではないことを受け止めながら生きていかなければいけないのではないか。どうしても意味が欲しいのはぼくも同じだ。でも、それを誰かに託して、意味を探すのを止めてしまうのは、控えめに云って危険だ、と思う。
(これについてはもう少し考えてみよう)