Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

紋切型(2)—続き

前のエントリに続いて、ululunさんの「超常的なモノを容認することは詐欺を容認することではない」と云うエントリに触れる。なんとなくたてつづけで申し訳ない気もするが、この方の論法を追うことで、なんとなくこれまではっきり見えなかった「ニセ科学がなんとなく容認されていること」の理由が見えてくる気がしているのだ。

科学的に証明出来るものばかりではない、という事実だけを言っているに過ぎない。

これはおおむねどの科学者も云っている(菊池教授も云っている。ついでに「科学的証明」の意味も)。科学的に証明できないことを「証明できる」と云うのがニセ科学なのだけど。そう云う訳で、

「知らない/わからない/わかっていない」だけで、科学的ではないと「本当に」自信を持って断言出来るのだろうか。

これは既にもう、特に何も云っていない文章になる。誰かが断言したのだろうか。
菊池教授も田崎教授も、例えば「水からの伝言」は科学ではない、と断言した。でも、断言の根拠はこの方が挙げられているようなことではまったく、ない。ここに不思議な脳内補完が生まれている。おそらくこの脳内補完は、「ステレオタイプな科学者像」に基づくのだろう(で、それに基づいて、「科学を論ずるときの科学者の態度」を決めてかかってしまっている、と)。要するにひとの話を聞く前に結論を準備してしまっているわけで。

詐欺商法に使われる可能性、詐欺に使われているという事実をもってして「それは良くない」と否定するならば疑似科学以外の広告宣伝方法も否定しなければならないと思うのだがどうだろう。

事実上詐欺に使われている、と云うのはニセ科学の大きな問題点ではあるけれど、そこを最大の問題として論難されている訳ではないし、それは問題の矮小化だ。百歩譲ってそこに議論を絞るとしても、すべての広告宣伝に話を敷衍するのは飛躍だし、「広告宣伝には問題があるものが多々あるからニセ科学を別して非難するのはおかしい」と云うのは無理な話だ。なんと云うか、少し前にも取り上げたYahoo!ブログの転載のひとがよく使う「私のやり方を非難するんだったら、こんなことをしてるひとやこんなことをしてる会社も同時に非難しないとおかしいんじゃないですか? 違いますか?」的ロジックを連想する。

と云うか一番興味深いのは、こう云う言説を行おうとする心理なのだけれど。「積極的な判断保留と思考停止の表明」とでも云おうか。これが理解できれば、幾つかのことがはっきりしてくる気もする。