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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

科学と宗教(試論)

ニセ科学に関連して、宗教に言及すべきだとは以前から考えている。でも、ぼくの思考能力の限界の低さもあってさっぱり簡潔にまとめることができない。テーマがでかすぎるのだ。でも、good2ndさんの「穏健な宗教」と云うエントリを読んで少し感じたことがあったので書いてみる。自分の中でしばらく出そうにない結論に向かっての、途中のステップとして。

以前にも書いたけれど、ぼくは科学も宗教も「世界を理解し、その中に自分自身を含む人間と云うものを位置づけるためのメソッドとツールのセット」であると考えている。その意味では、「信じること」から始めるのは宗教の本質ではない。科学も宗教も、本来は「疑うこと」から始まっている、はずだ。

ひとが生きていく、その過程の中で、神や霊魂の実在を感じることは実際に発生する。それが科学的事実かどうかはともかくとしても、感じることはあるのだ。神とか霊魂とか云う云い方がまずいなら、シンクロニシティと呼んでも布置と呼んでも構わない。信じる、信じない以前のものとして、感じることは発生するのだ(もちろん誰にでも同様の頻度で発生する、と云うことではないけれど)。本来の宗教は、いかにしてこのことを説明し、理解するかと云うことを目標にしている。理解して、それを社会と生活に役立てることに。だから、「穏健な宗教」は長い時間をかけてそのメソッドと実際の社会との擦り合わせを行い、論争を繰り返し、そうしてより有効なツールセットとして機能すべく洗練を繰り返している。

水は言葉を理解したりしない、ということは「ほぼ断言していい」のに、神や霊魂は実在しない、ということは「ほぼ断言」できないんでしょうか。してもよさそうなもんだけどなぁ。この間にそんな大きな違いがあるんでしょうかね?うーむ。
いや別に、科学者は反宗教キャンペーンをするべきだ、とか言いたいわけじゃないです。してもおかしくないとは思いますけど。だって、神が見てるとか来世がとか天国がとか、そういうのを「根拠」にして(かつ、それが作り話であることを理解させずに)道徳を説くなら、やっぱり「事実でないことに基づいて道徳を教えていいのか?」ってことになるでしょうから。ただまあ、日本の学校では宗教で道徳を教えることはあまり無さそうですが。

ひとの心の動きの中で神や霊魂を感じることがある以上(いや、今のぼくたちは日常的にそれを感じることはないかもしれないけれど、かつては確実にあった訳だ)、それは「実在しない」で片付けて済むものではない。もちろん自然科学のスコープにおいては実在を証明することはできないけれど、だったらすなわち「ない」ことだ、としてしまうのは、別の意味での思考停止に他ならない。菊池教授をはじめとする「反ニセ科学」のスタンスに立つ科学者たちが、例えば弾さんの執拗な挑発に乗らずに「科学vs.宗教」と云う構図で処理されるのを拒むのは、彼らがこのことを理解しているからで。
宗教を信仰している科学者は矛盾しているのではなくて、科学と宗教それぞれの有効範囲を理解した上で、それぞれのメソッドを採用しているだけの話だ。

宗教について安直に語るには勉強不足なのではあるけれど、少なくとも世界三大宗教と呼ばれるものには、その教義自体を疑い、より可用性の高いものとしていくための仕組みがビルトインされている。一定以上の地理的・文化的範囲を超えて普及している宗教は、それだけ多くのコミュニティで活用可能なツールとメソッドを準備できている、ということで、つまるところそれはそれだけ多くの懐疑と葛藤し、教義自体を使い勝手のいいものとしてきた、と云うことだ。

その意味で、宗教一般をカルトと見なすような言説にも注意が必要だと思う。以前グノーシスに絡めて少し書いたけれど、カルトがカルトなのはそれが存在するコミュニティの中で充分にツールとして機能せず、(おもにその目的によって)機能を向上させるための仕組みを備えていないからだ。カルトに懐疑は存在しないかもしれないけれど、その特性を宗教一般に敷衍するのはこれもまた(ニセ科学を存続させている心性と同根の)思考停止だと思う。

ちなみに、多くの宗教が「まず信じる」ことから始めさせようとするのは、そうするのがその宗教の準備する思考のメソッドを身につけ、以降の思索を行う力を養うにあたって経験的にもっとも効率のいい方法だからだ、と思う。信じること(そうして、そこで思考を停止すること)を入り口ではなく最終目的に置くものは、宗教ではなくてカルトだと判別してもいいのではないか。
言い訳のようだけどこの辺り不勉強でなかなか断言できないのだけど、その意味では「水からの伝言」や数多のニセ科学を宗教と呼ぶのは、宗教と云うものに対しても侮蔑的なのではないかなぁ。