Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「美しい国」だの「希望の国」だの

細かく見ていくと突っ込みどころは沢山あるのだけど、それよりも直感的に伝わってくる不愉快さは何なんだろう。

ぼく個人について云えば、まぁ端的に言うとどちらも「いま得をしている人間が、今後も得をしつづけるために並べている理屈」であると云うことがあからさまに透けて見える、と云う点かなぁ、などと思う。もともと為政者とか経営者って云うのが尊敬を受ける、その敬意の源泉って云うのは自分の抜きん出た力量を広い視野の中で他者のために使うという姿勢にあって、その姿勢が周りに認められることが彼ら彼女らの地位を肯定させる後ろ盾になる、と云うのが仕組みだったんだと思うんだけど、どう考えてもそう云う機能が動いてるように思えないものなぁ。

法律に違反しなければ何をやってもいい、と云うのは確かに法治国家の原則で、自分の都合に合わせてその法律の運用を左右する、って云うのはそう云う力を持っている人間ならやりたくなるのも人間の性として理解できない訳じゃないけど、そう云う人間が他人の道徳だの教育だのについて言及するのはそもそも恥の概念を持つ日本人としてどうよ、とか思う。
いまこの国で権力を持つものには、なにか大きな勘違いがあるのではないか。歴史上どんな圧政者も、最低限自分の支配する民を庇護する、と云う発想だけはあったはずだ。
それさえなくてもいいのが資本主義だとすれば、なんか早晩この国は国の体裁さえ失うんじゃないか、と云う気もする。

少し前に芦屋広太氏の日経IT Proの記事が多少話題になった。いろいろな意見があったけれど、ぼくが不愉快に感じたのは「力を持つものが自分の都合に合わせて他人に対し操作的に行動することを全肯定している」と云う点だったりした。そう云う人間がそもそも力を持つのは変だと思うんだけど、でもいつの間にかそう云うメカニズムが働くようになっている。もうなんと云うか、自分のことしか考えない人間ほど得をする、他人のことを考える人間は利用され、搾取される社会構造。しかもより経済的に搾取するための標語が「美しい国」だったり「希望の国」だったり。このあたりの言葉を口にする人間がそのことを隠そうともしないから、なんかグロテスクすぎて一種のユーモアさえ漂ってくる。
もう、ポーズだけでもいいから、偉いひとたちは「俺たちはみんなのことを考えてるんだ」ってふりをしてくれないかな。多分、「どういう人間が得をするのか」ってことを子供たちも見ているよ。みんなあんたたちみたいな下司に育っちゃうよ。