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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

道徳やしつけの根拠は自然科学「にも」ある

正直、小飼弾さんのエントリに言及するにあたって、相当腰が引けています。
対等に論陣を張れるほどの能力がある気もしないし。とか書くと予防線臭いなぁ。

そしてその根拠は、と問うと、「自然科学は価値中立だから」ということになる。自然科学は毒にも薬にもなるのだから、そこから道徳やしつけを導くのはおかしい、というわけである。

その通りではあるけど、ニュアンスが少し違う。
自然科学がしつけや道徳の問題を専門的に担うにはあまり向かない、と云うのが菊池教授の認識だと思う。そして、自分の専門分野外のことについて影響力のある発言をすることに(そしてそれに伴う責任に)対して、自分に慎重さを課しているのだ。

それでは、自然科学者たちはこれらの「自然科学の負の応用」から完全に免責なのだろうか?

そう思っていないからこそ、現在の「対ニセ科学」活動に繋がっている訳で。

私は、結果責任からは免責であるべきだと思うと同時に、説明責任からは免責でないと思う。そして自然科学者たちは、現時点ではその説明責任を充分全うしていないとも感じている。

そしてなぜそうなのかといえば、「自然科学における説明」と、「一般人に対する説明」の違いに自然科学者たちがあまりに無頓着だという理由に思い当たる。自然科学においては、ある間違った仮説があれば、それを反証するだけで充分な説明となる。「それは間違っているから次行ってみよう」暗黙の了解がすでにそこにある。

しかし「一般人に対する説明」は違うのだ。「それでは何を信じたらいいのですか?」という質問にまで答えてあげないと、答えたことにならないのだ。「水からの伝言を信じるな」というのは、だから説明責任の半分しか果たしていない。そこで「誰からの伝言なら信じてもよさそうだ」ということまで伝えてはじめて一般人は「納得」するのだ。

この部分については基本的に同意しているし、kikurogで同様の提案をしたこともある。ただ、何点か問題があるのだ。

ひとつには自然科学に対して、その側面には「公金が投入されていない」こと。
菊池教授にしても田崎教授にしても本来の業務の合間を縫って啓蒙(と云う言葉は嫌だしご本人たちも嫌うだろうけど)を行っている訳で、そちらに力点を置いて本業の研究で充分な業績を挙げられなければ当然ながら干上がってしまう。すでに評価を得ている自然科学者のビジネスとしては、彼らがこれらの行動を行うことにはほとんどデメリットしかないのだ。

そして、彼らがしつけや道徳については専門家ではない、まさにそのこと。
専門の物理学について何か発言する際に、彼らは権威として全的な責任を負うことができる。でも、彼らはしつけや道徳に関しては充分な修行を積んだ最前衛の学者ではないのだ。

ぼくが、ことはもっとアカデミズム全体の問題だ、と云うのは、この部分に関してのことだ。アカデミズムは各分野が独立・不干渉を守るべきものではないと思う。必要に応じて相互補完するべきものではないのだろうか。

結局科学者もそうでない人々も、同じ宇宙の同じ臭い飯を食う仲間なのだから。

このことには完全に同意する。でも、自然科学者に特徴的にその部分の意識の薄さがみられる訳ではない。

例によって他人事のように書いてしまうけど、学者に限らず人文科学・社会科学に従事する方々が「菊池・田崎ごとき自然科学者に先に声をあげられてしまったこと」に対して危機感をもっと感じてくれてもおかしくないと思う(実際のところそれどころではない、と云うのも分かるけれど。なにしろ、「ニセ科学に立ち向かう」ことなんて学者の仕事として面白くも何ともないだろうし、そこに現実問題として「公金は投入」されないのだから。「美しい国」に暮らすゆえのディレンマ)。