Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

スピリチュアルなことども

深く信じていると云うことはないけれど、実はスピリチュアル関係の事柄に対してはほとんど抵抗がない。江原某だの細木某だののTVショーを好んで観る、とかいうことはないけれど。

ぼく自身は多分無宗教だけれど(無自覚なのでいちおう留保しておく)、若い頃の澁澤龍彦趣味の残滓はけっこう自分の深い部分に残っていて、その種の情報に触れたりするのは好きだ。この歳のおっさんにしては占星術も気にするし(2分後には何が書いてあったか忘れているのだが)昔はタロットなぞいじくったこともある。心霊好きだったりする訳ではないけれど(信じる、信じない以前にほとんど興味がない)、とりあえずオカルト絡みについては、特にそこそこの歴史があって関係者が必死になって体系を組み上げようと努力しているものに関しては、その試みに触れるのが結構楽しい。
まぁこれは、小さい頃からのSFファン気質から発しているものなんだろうけど。

ところでぼくは20代の大半を三鷹の駅前で過ごした。おかげで当時はそこで半ば土着化していて、複数ある「心のホームタウン」とでも云うようなもののひとつになっている。
当時の住居からほど近い辺りに、小さな画廊があった。カメラマン兼業らしい初老手前ぐらいの店主と、年齢不明だがなんだかやたらに綺麗な女の人がふたりでやっていて、画廊の真ん中のテーブルはどんな縁故なのか分からないがいつもいろんなひとが集っていた。近所の住人、というだけでぼくも時折そこに混じって出されたお茶なぞを飲んでいたりした。

そのうち会話の内容から何となく気付いたのだが、そこに集まるひとたちには結構な割合で霊能力者の方々がいた。そういうひとたちが、なんだか緩い雰囲気の中で、そういうことを仕事にするひとたち同士の結構現実的な会話を交わしているのだ。まぁ彼らは互いに、スピリチュアルな実務に従事する人間同士の会話をしているだけで、その場にいるぼくに何事かを押し付けてくることはない。ぼくもぼくでそう云うことに関わらない人間として、会話の中で風向きが向いてくれば口を出したりする。それはそれでサロンとして普通の風景であり、取り立ててなにか異様なものだったりはしなかった。ぼくの父親が事故にあって大怪我をしたときにはその場の何人かの霊能力者がどこに障りがあったのか一生懸命考えて助言をくれたりしたけれど、そのことを通じてぼくから何かを得たり、ぼくをどこかに導いたりしようとする感じは全くなかった。

店主は結構その道ではえらいひとだったようで(ぼくに対してスピリチュアル系の話題を振ってきたことは一度もなかったが)、本業の霊能力者が彼にアドバイスをもらっている姿を見かけることもあった。
一度、ある女性の霊能力者が彼に「あんた、そんなんじゃただの霊媒で終わっちゃうよ!」などと叱り飛ばされている場所に居合わせたことがある。なにごとも技能として、職業として取り組む以上基本的に求められるものは大きく変わらないのかな、なんて感じた。
場違いなぼくがその画廊をうろうろしていられたのは多分、そこに集うひとたちが十分な職業意識の高さとある種の清潔さを醸し出していたからだと思う。よく見聞きする拝み屋さんたちの振舞とは、彼らはまるで違っていた。

彼らの技能、技術、思想はちゃんとした体系としては出来上がっていないし、それゆえに普遍的なものとしては認められない。これは当然だ。だからといって、それゆえに単純に馬鹿にされるべきものだとは、ぼくは思わない。その画廊で彼らは(彼らの文化圏の外にいるものとして)ぼくに節度を持って接してくれたし、楽しい時間を過ごさせてくれた。ぼくを同調させようとか説得しようとか折伏しようとか、そういう行動にはいっさい出なかったので、ぼくはぼくで、信じる信じないに関わらず彼らのロジックを素直に受け止めることができた。

スピリチュアルなものが生き残っていくのは不自然だと思わないし、根絶されるべきものだとも思わない。問題なのは、それらがあるときには必要とされる技術としての範疇を超えて、社会規範とぶつかり合ったり、経済的価値と結びついたりしたときだと思う。技術そのものは存在しても構わないのだけれど、その背景は例えば科学のような常在する懐疑によって鍛え上げられた体系と比較するともちろん脆弱だ。だから科学を否定したり、あるいは科学を利用して正当性を主張したりするのだろうけれど、そもそもが出発点の違う体系なのでひどく無理が生じる。特に今の「銭のためならなんでもやりまっせ」的雰囲気を隠そうともしなくなったマスメディアに乗っかった場合には、いかがわしさ炸裂で背中透け透けになる。

スピリチュアリズムを頭から否定はしないし、そこに何かしらの意味や価値が存在することもあり得ると思う。それでも、それがあり続けるための相応しい場所や振舞が存在するのではないか、と思う。