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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「感性」

つい使ってしまいそうになるけど、なんか根本的にこの言葉が嫌いだ。
言葉の意味するところが嫌いと云うより、使う人間や使われるシチュエーションが嫌だ。

大体この言葉は、薄弱な根拠に基づいて自分の云いたいことを正当化するために使われる。そう云う意味においては使われる場においては本来の意味を失って、何かしら「自分の中にある、よく分からないけど他人に尊重されるべき部分」と云うことを意味するようだ。
これは多分、これまでの人生で何度か「感性に欠ける」だの「感性が鈍い」だのとののしられた経験によるのだろう。ぼく自身の言葉に関する感性に準拠すれば、他人にそんな云い方をする人間こそが、言語に関して牛以下の感性しか持ち合わせてないのじゃないか、と素直に疑問に思うのだが。

とりあえず他人の前で十分な説明もせず(ということは言語を使う際の最低限の合意もとりつけず)「感性」と云う言葉を使う人間は、なにか感性と云うものをプラスかマイナスに振れるようなものだと考えているような気がする。「豊か」か「貧しい」かのどちらかで測れるような。

筋道を立てて説得しているのに、「理屈じゃないんだよ。もっと感性で話せよ!」と言い放った昔の上司とか。
「なんと云うのかなぁ。ぼくの感性にフィットしなくてねぇ」とか口にした某クライアントのえらいさんとか。
頭に来る前に呆れてしまったのは、きっとぼくが貧困な感性しか持ち合わせていないからなんだろうけど。たぶんどちらの時にもぼくはなにかしら反省を求められていたのだろうけれど、それが何なのかは未だに分からない。感性の劣った人間の悲しみと云えよう。

大体の芸術作品は、僕の乏しい感性で捉える限り、「表現したいこと」に対してとても論理的にアプローチしている。表現したい対象こそどこから生み出されるのか説明しがたいものだったりもするけれど、そこに至るまでにどんな手法を選び、どんなふうに構築するかについてはおおむねロジカルに行われていると思うし、そうでなければ受け手であるぼくの愚鈍な感性では多分まったく楽しむことはできないだろう。

「感性」という言葉を使うかわりに、ぼくはできるだけ「感受性」という言葉を使いたい、と思っている。どうやら単純にボルテージの高い、低いを比較するための言葉らしい(そう云う使われ方しかほとんど聞かない)一面的で含意の薄い「感性」と違って、さまざまな方向性を保有しうる言葉のように思えるからだ。

そう云えば多くの場合、科学を信頼したり、水が言葉を理解しないとか考えたりする人間は、「感性が鈍っている」とか云われるようだ。感性、という言葉を使えば、それ以上他人に理解できるように説明しなくてもいい、と云う仕組みがあるのだろう。