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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

生き残ること。戦い方。そして世界。 (「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」桜庭 一樹)

ぼくは生き残っている。それは結果論でしかない。

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

  • 作者: 桜庭 一樹
  • 出版社/メーカー: 富士見書房
  • 発売日: 2004/11
  • メディア: 文庫



ぼくがライトノベル(当時はそんな呼び方はなかったけど)をもっとも頻繁に読んでいたのは大学生の頃だ。むくつけき、どちらかというといかつい見た目をしながら、コバルト文庫氷室冴子を中心に「青春小説」「少女小説」を読んでいた。
そこに感じていたある種の甘さは、当時澁澤龍彦を読んだり、シュルレアリスムの絵画を見たりすることで受け取っていたものと、大枠では共通している。生活全体をコーティングする、美意識と云う甘ったるい砂糖。根拠のない特権意識と傲慢さ。
実際のところそれは、その頃から遥かな時間を経たいまでも多分大きく変わっていない(なんだか恐ろしく気恥ずかしいことを言明している気がする)。自分にこそ理解できる何かがある、自分にこそ言葉にできる何かがある、と云う根拠の薄い思い込みは、こうしてぼくに言葉を綴らせている。その点で、ぼくはある意味未だに甘い砂糖のコーティングを通して世界を見ているのかもしれない。
それは、生き残ってこられたから。

このブログのなかで、ぼくは何度かいじめに触れた。その度に、いじめの被害者に対して「戦え」「戦った挙句の死を、ぼくは責めない」と書いてきた。でも、その背景には、間違いなく生き残ってこられた人間の傲慢がある(もちろんぼくにしたところで、これからどれくらい生き残っていけるのか知れたものではないわけだけど)。

ヒロインのひとりである藻屑のばらまく砂糖菓子の弾丸は、彼女の周りのひとびとに流れ弾としてぶつかるけれど、だれひとり撃ち抜くことができなかった。もうひとりのヒロインであるなぎさは、確実に撃ち抜くことのできる実弾を手に入れようとする。でもその実弾も、命中しないことには撃ち抜くことはできないのだ。

そうして、世界は彼女たちの前に剥き出しで立ちはだかる。
負けたものは死ぬ。生き残ったものも、勝ったとは限らない。戦いは終わっていない。

そうしていまも、藻屑を殺した世界と同じ世界が、ぼくらの前にある。その世界がいま、ぼくらに牙を剥いていないとしても、それは「いまこの瞬間は」「ぼくらには」と云うだけの話だ。

砂糖菓子の弾丸は、本当に無力なのか。牙を剥く世界に立ち向かうためには、実弾の準備が欠かせないのか。どんな実弾を、どれほど準備しておけば、ぼくたちは生き延びることができるのか。そうして、いざ撃つしかない瞬間に、ぼくたちは誰に向かって引鉄を絞るのか。

ぼくたちはおとなだから、多少の実弾は準備できる。でも少なくとも、できるだけ実弾を撃つ必要のない世界をつくるために日々を過ごしている、はずだ。だけど、どうすればそんな世界がつくれるのか、についての完成したメソッドなんかまだ存在しない。
犠牲者はこれからも出続けるだろう。でも、ぼくたちは自分で考えて、試みを続けるしかないのだろうな。

ここから蛇足:
以前書いたとおり、最新刊ではないものについても、新しく読んだものでないものについても、今後は記述して行こうと思う。この小説も、発刊から1年以上が経由したものを、dainさんの「劇薬小説」エントリで知って読んだ。
書くに当たってネット上の書評を軽く漁ってみたりしたのだけど、暗黒だの猟奇だの云う書評が多くて(つまりあんまり切実さを感じていないらしいエントリが多くて)、これって作者の戦略どおりなんだろうか、とか考えた。確かにラノベ文体(いや、読み込んでないから知らないっすけど)のカプセルで呑み込まされたって云うか、そうじゃなきゃこのペースで読めなかっただろうしなぁ。