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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「分かりやすさ」の危うさ

幾つかのエントリ(これとかこれとか)で書いてきたけど、どうしても違和感と危機感を感じるのは、最近の「分かりやすさ指向」だ。

そのあたり、こちらのエントリで綺麗に言語化されている(suVeneさま。ブックマークコメント拝見しました。ここのところどうやって「宗教」について触れようか悩んでいたところなので、不適切な例え話を用いてしまったかもしれません)。
そうなのだ。言葉は、その言葉を使う人間同士で共通の認識(定義、と云ってもいい)がないと十全に機能しないのだ。

「分かりやすい」言葉は、分かりやすいだけに通じた気になってしまう。表面の意味、辞書に書いてある意味どおりだと思い込んでしまいやすい。「ありがとう」は「ありがとう」。「愛と感謝」は「愛と感謝」。「善意」は「善意」。お水さまだって知っている、だって?
あんまり馬鹿にするんじゃない。

言語は曖昧だ。構造主義言語学を持ち出さなくたって、時代で、状況で、文脈でいくつもの意味を持ちうることくらい自明なはずだ。それを、豊かさと云うのではないか。誰がどこで口にしても同じ意味を持つ、ということがあり得ないから、コミュニケーションは深みを持ち得るのではないか。
互いの発した言葉が、どんな意味を持ちうるか。そこで何が伝わるか。分かりやすく伝える努力も、技術も、もちろん大事なものだ。でも、「こうじゃないんですか? 違いますか?」みたいなOn/Offの問いかけで成立するような対話は、ひとが積み重ねてきた対話の歴史に対してあまりにも侮蔑的ではないか。

言語の曖昧さは、使うものの自由度でもあり、コミュニケーションに向けての努力を肯定する事のできる豊かな糊しろだとも思う。「分かりやすさ」指向は、それをスポイルするものではないか。