Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「善意」を甘やかしてはいけない。

ネットの片隅で「善意の転載」が議論になっている(だれかが上手にまとめたエントリがないかと探したんだけど、適切なものが見つからなかった。このあたりか)。とあるブロガーが「善意あふれるエントリ」を書き、読者に「善意に基づく転載」を推奨したことに端を発している。
もともと、チェーンメールの類はネットワークの負荷を増やすのでやってはいけない、という行動規範があった。それはインターネットを利用するものに絶対的に求められる、モラル以前の常識であり、それがどのような善意、どのような切迫した事情に基づくものであっても、そのことそのものがインターネットの原理に敵対するものであり、ケースバイケースなどと云う考え方をする余地がそもそもない、「小規模なテロリズム」として捉えられていた。同内容のテキストを増殖させるチェーンテキストも、本質的には同じものだろう。

まぁ例えば10年前と比べればインターネットユーザ数は10倍以上に増えただろう。ネットに接続するために乗り越えなければいけない壁は100分の1以下に低くなっているだろう。そこで望まれる振る舞いと行動規範を教えてくれるグルの数も、相対的には減っているだろう(もっとも、そういう基本的な行動規範を踏まえない人間が初心者を啓蒙するためのブログを開設していること、あまつさえ自分の行動がYahoo!ブログに対して無用な負荷拡大という結果をもたらしているにも関わらず平然としていること、などを考えるとどこか薄ら寒いものを感じるが)。
でも、「教えてくれないから知らない。初心者だから知らないのは当たり前で、誰かが教えてくれるべきだ」と云うロジックは、もっとも嫌悪されるもののひとつだった。インターネットは「みんなのもの」であり、そこには基本姿勢として「貢献」が求められるものだったからだ。初心者はインターネットを学び、そのなかで少なくとも自分の貢献できる部分を探す、すくなくともインターネットを存続させるために必要な行動規範くらいは学ぶ努力を(自分で)して、振る舞いに気をつける、という程度のことは当然とされていた(基本的に、このルールは変わっていない。変わっていないのにそれを知らない(教えてくれなかったから!)人間が増えているのが、まぁムラビト対モヒカンの対立みたいなかたちで表面化しているのだろう)。

なんだか長くなったけど、これはただの前書き(すみません)。

善意、について何度か書いた。このあたりとかこのあたりとか。
善意に基づいて行動したときに、もっとも多くの報酬を受け取るのは、その行動をした本人だと思っている。「自分の善意を実現した!」と云う気持ちが、善意の最大の報酬だ。だから、善意の行動は元来「その善意の対象となった人間の受けるベネフィット」とは関係なく行われる。善意とは、自分が気持ちいいから発動されるものだ(そうじゃなければ、「こんなにしてあげたのに感謝されない」みたいな話にはなるはずがない)。
もちろん、だからといって善意に基づく行動を否定するわけじゃない。ただ、善意はつねに疑われるべきだ、ということを意識していないと危うい、ということだ。

「善意」という言葉には、よい意味しかない。だからと云って、善意に基づく(と本人が思っている)行動がつねにすべて肯定されるべきだ、という結論には結びつかない。9.11テロもイラク戦争も、それを行ったものたちの倫理規範にもとづく善意に基づいて引き起こされたものだ。世界貿易センタービルに押しつぶされたものたち、アメリカの爆弾に焼かれたものたちに、自分の動機が善意であることを語る者がいれば、ぼくはその者を許したくない。

善意はつねに疑われ、その疑念によって鍛え上げられるべきものだ。自分の気持ちよさのために行うものであるゆえに、それがもたらしうる結果についてつねに考え続けられなければいけないものだ。それを自分で善意と呼び、ゆえによきものだ、と云う捉え方は、どのような文脈で発せられた場合にでも「ありがとう」と云う言葉がよい意味を持つ、と云う発想と変わらない。それは思考停止であり、表層をすべてであると考える「わかりやすさ」信仰であり、無意識の差別の源泉であり、罪悪感なきいじめの元凶なのだ。

とは云っても、今回の騒動の主にはこういうことは理解してもらえないんだろうなぁ。疑われること自体を(その疑いが正当であるか否かを問わず)嫌う人間が、自分のことをつねに疑う、なんて姿勢を取れるわけもないだろうし。そもそもこんなエントリをアップしているくらいだもの。
言葉は文脈とニュアンスで意味合いを変える、柔軟さを持った生きたもの。反論するに事欠いて「辞書上の意味はこうだ」だもんねぇ。