言葉の有効範囲
言葉は、何かを伝えるためのツールだ。当たり前だけど。
だから当然、使い方が難しい。
自分の言葉があって、所属するコミュニティの言葉があって、そのコミュニティを包含するさらに大きなコミュニティの言葉がある。含まれる語彙と文脈がそれぞれ違うので、言葉が伝えられる意味も違ってくる。
だから、「水からの伝言」が生じさせている問題は、科学者側から提示されているものだけではない。江本が愚弄しているのは、言葉そのものだ。
紋切型は、通じやすい。
幾何学的に整然としたものは美しく、美しいものは道徳的に正しい。道徳的に正しい行動は、物理的に美しい結果を生む。——この発想そのものの極端な「分かりやすさ」と、信じがたい貧困さ。歴史の中で人が紡ぎ、重ね、いまも生きたものとして動いている言葉に対する、これは侮蔑だ。
人文に関わるもの、文学者、数多の表現者こそ「水からの伝言」に怒るべきだ。
あなたたちの営為を、江本は安直な実験で否定している。
言葉を選び、積み重ねることであなたたちが苦しみながらなんとか伝えようとしているものを、ひどく単純で貧しい価値基準による評価に押し込めようとしている。
あなたたちの選んだ言葉は、あるときには「道徳的に」正しく、あるときには間違っているという評価が下されるのだ。そんなことに耐えうるのか? あり得ない。
まぁ、逆に言うと、「水からの伝言」に賛意を示すような表現者は、その時点で馬脚を現した、と云えないこともない。そのひと自身がどれだけ真摯に自分の表現と向き合っているか、を測るための、それこそとても「分かりやすい」基準だと捉えることも出来る。「紋切型辞典」から持ってきたような分かりやすく、貧しく、空疎な表現。
ときどき(自分でも青臭いと思いながら)「フラニーとゾーイー」をどうしても読み返したくなることがある。その種の安い表現に出くわしたときなんだけど。
追記:
ちなみに上の「安い表現」と云うのは、その態度の安直さについての謂です。
えぇ、あたくしも自分の表現者としての力量不足について自覚がない訳じゃござんせんことよ。