Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ユリノキ

うちの前の通りのユリノキ並木が、紅葉している。何日か前までは少しずつ黄色くなっている感じだったのだが、さっき見たら気の早い奴はあたまのてっぺんを赤くしていた。
この道は400年前には奥州街道で、60年前にはChicago Streetだったらしい。

というのは、ちょっとだけ進駐軍の地図を見る機会があったのだ。
仙台のいろんな通りに、進駐軍は結構いい加減な名前を付けている。南町通りにはMaple Streetという名前が付けられていたことはWikipediaにも記載があるが、見ていると結構アメリカの地名や樹の名前がつけられていて興味深い。
街の骨格になる主要なストリートが、当時と今では違っているのもはっきり分かる。終戦直後なので、青葉通りや広瀬通は存在しないし、細横町(いまは晩翠通りとかいう観光臭い名前で呼ばれることが多いが)はまだその名の通り細かったようで、並走する木町通りはしっかり記載があるにもかかわらず載っていない。いまはあまり会話に使わない(どころか若い子なんてどこを指すのかさえ分からない可能性もある)北一番丁や北二番丁の名前がちゃんと載っているのも面白い。戦前と戦後では、仙台の街の重心が南東にずれているのがわかる(ここ10年くらいでは、個人的な感覚だとさらに少しずつ東に移ってきているようだ)。

街は、積み重ねられた時間を記憶していく。住む人間の気質が形成されてきた過程を、その地名や歴史的遺物に集積させていく。
少し前に住んでいた博多・福岡なんかは、1,000年を超える集積の過程を経て、とても重層的な都市になっていた(だいたい、あの街が成り立ちとしてはツイン・シティだなんてことは、そこに住んでいろんな地名と直接接しないと分からないだろう)。それに較べると仙台の歴史は400年少しと短い。それは仙台と云う街の懐の狭さ、底の浅さにも繋がっているが、街の振り出しから現在に至るまでの経緯を見通しやすい、という利点にも繋がる。
ぼくの通った高校の音楽室はもともと進駐軍のクラブで、歌手用のちいさなお立ち台があった。大学のときのクラブハウスは進駐軍の馬小屋だった(だれか子供をそこで生んでいれば面白かったのに)。浅くても、そういった歴史の上に、ぼくたちも都市の記憶をさらに積み上げていく。多分ぼくたちの営為は、そうやって街に堆積して、誰かに引き継がれていくんだろう。
リアルな街に住む楽しみは、ぼくの場合そういう微妙な参画意識にあるのかもなぁ。