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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「普通」と「自信」

このエントリの続きと云うことになるのか。
いじめる子供といじめられる子供を分けるのは、結局その子供の自信のありどころの違いだと云う気がする。と云うか、自信と云うものの意味の違いか。

自信、というのは個々人に最初からそれぞれ違った水準で装備されていて、時間の経過や環境によって装備水準が変化するようなものだと思う。変化の要因も複数あって、それは周囲からの評価であったり、自分で積み重ねたなんらかの結果(学校の成績とか、仕事の業績とか)だったりする。

子供の頃は自分で積み重ねたものなんてないから、周囲の評価だけが自信を強化する。なんらかの突出によって得られる評価もあれば、突出せずに「普通」でいることによって得られる評価もある。いずれにせよそれは、その子供の所属するコミュニティの価値観、云ってみれば「空気」によって決定される。
「普通」の子供たちは、「普通」であることによって自信満々でいられるわけだ(この場合、そのコミュニティの価値観を規定する「宗教」なり「倫理」があれば話は別だが、通常日本の学校にはない。もちろんないのが悪いとはこれっぱかしも思ってないけど)。だから必死で「空気を読む」。みんなが見てるテレビ番組を見る。みんなと同じところで笑う。
そしてもちろん、「みんな」じゃない存在を作り出し、自分たちの空気を正当化し、自信の下支えに励む。

だから正直、いじめをなくすなんてことは構造的に無理なんじゃないかと思う。と云うか、これって日本人の精神構造のなかにビルトインされた仕組みなのではないかと。昔からあったし、いまが一番ひどいなんてこともないんじゃないかと。数値的な裏づけはないけれどね(でも多分、この云いっぱなしの暴言に反論するだけの数値的裏づけは文部科学省だって持ってないだろう)。

いじめられた子供が自殺する。これは、仕方のないことなんだろうと思う。それは戦死だから。
退路を絶たれた、援軍もない、自分自身に戦い続けることを強いる「自信」も失われた、となれば、死ぬのはひとつの選択肢だ。なんの不思議もない。

もちろん、子供の自殺は痛ましいことだ。特に、親たちにとって(基本的に教師にとってはそれほど痛ましいことではないだろう。面倒で、自分にとって不利なことではあるかもしれないけれど)。
だったら、親は戦い方を教えるべきだ。援軍となるべきだ。

「普通」だった親、戦ってこなかった親は、戦い方を教えられないかもしれない。でも、そのことには一切同情しない。因果応報だ。あなた方は「普通」で、「空気を読」んで、結果的に「殺す側」だったのだ。殺してきた人間が、自分の身内が殺される側になったと云うだけで、自分たちと同じ殺す側の子供たちに文句を云ったり、自分たちが殺す側として行動するのをかつて容認してきた(要するに、そういう機能しか持たない存在としての)教師たちに文句を云うのは筋違いだ。
自分が戦って、生き延びてきた側の親たちは、戦い方を教えることができるはずだ。自分自身に戦い続けること、生き延びることを強いるだけの「自信」の持ち方を。

ひとの命は大事だ、互いを尊重する必要がある、なんて云うことを、「普通」のみなさんは口にする。でも誓ってもいい。彼らはそんなこと考えてもいない。と云うか、空気を読むことに忙しくて、ほんとうの意味で「考える」ことなんかその人生を通じて学んでもいない。考える必要なんてなかったから。学校でも教えてくれなかったから。そんなことをしなくても、空気を読んでいれば自信を持って生きてこられたから。

前にも書いたけれど、誰かと話していて、その人間が平然と「普通」という基準を論拠にする人間だと分かった瞬間に、ぼくはその人間と真剣に対峙する気がなくなる。どうしても「普通」の輪のなかで上手に振舞えなかったぼくからすると、その人間は罪悪感に欠けた(と云うか、罪悪感というものを認識するだけの最低限の知性さえ持ち合わせていない)虐殺者の一味、という認識になる。「普通」であることが上手いと云うだけで、行き続けていけるだけの自信を支えている、羊にも劣るような哺乳類と捉えるようになる。
とはいえ例えばぼくも、そうそうひどいいじめにあったとは感じていない。彼我の戦力差が圧倒的なだけで、あれはやはり「対立」だった。戦いだ、と意識することが出来たから、生き延びることが出来た。
もちろん(もうおとなになってしまったから)表面化していないだけで、戦いは終わっていない。次に表面化することがあれば、ぼくは冷徹に、悪辣に、思いつく限りもっとも卑怯な方法で、自信に満ちた「普通」のひとたちをどうやって虐殺するか(もちろん比喩的な表現だけど)を考え始めるだろう。それは彼らにとっても、自分にとってもけして幸福なこととは云えないけれど(だから出来るだけ避けたいとは思うけれど)。

いじめられているきみへ。
これは戦争なんだ。いじめられているきみと、いじめている連中の、どちらの責任がより重いか、なんていうことは関係ない。戦争は勝ったものが勝ちだ。勝ったものにしか、「自分が正しい」と云う主張は許されない。
戦争なのだから、使えるものはすべて使え。学校の先生も親もなにもしてくれないかもしれないけど、それはきみの使い方が悪いんだ。彼ら彼女らの使い道を考えろ。おとなは上手に使えば役に立つはずだ。
そうして、戦いのなかで、自分で自分を生き続けさせるだけの自信を養うんだ。それは「普通」のひとたちが漠然と根拠なく抱いている自信より、よほど意味のあるものになる。
負ければ、それは自殺以外を選べないかもしれない。でも、生き延びさえすれば、きみの勝ちだ。どんな手段も、卑怯ではない。
勝ってしまえば、きみには力がついている。「普通」であることを根拠にして集団にならないと生きていくことさえできないような連中とは、比較にならないような。戦いを通じて自分で自分のなかにいろんなものを積み重ねることによってしか、生まれないような自信が、きみの中にはあるはずだ。
その時、改めて戦いを続けるのか、それとも何か別のことをするのかを選ぶのは、きみの権利になる。そのためだけにも、生きていくことを選ぶほうがいい。辛いかもしれないけれども。