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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「いじめ」と「普通」

いじめられることは、自分の周りの環境と対決することだ。つまりは、それはいじめられる方からすると戦いだ。
旗色が絶望的に悪くなって、どんな活路も見出せないような戦いで、死を選ぶ。別段、なんの不思議もないのじゃなかろうか。

いじめる方とか、周りから見ている大人たちからするとそうは見えないのかもしれないけれど、いじめられる方からすればそこは戦場だ。自分が自分でいられるのか、自分を否定するものに囲まれて生き延びられるのか。それは、戦いだ。
しかも、戦う相手は「普通」なのだ。

いじめる方は多数派だ。多数派であることだけが、他人をいじめることを自分に許す根拠になる。「みんながいじめている」ので、「普通」である自分は「いじめてもいい」と判断する訳だ。
そこにあるのは底抜けの「無邪気さ」だの「童心」で、少なくとも「知性」とか「判断力」はない。善意も悪意もない。要するに、人間を人間たらしめているものは、そこにはない。
小学生・中学生くらいの頃のぼくはどちらかと云うといじめられっこだった。ぼくにとって、周囲の連中の無邪気さや童心、知性の欠如と対峙しなければいけないのはひどく不愉快な経験だった。

それはある意味、彼らの定義する「普通」との戦いでもあった。
とりたてて何も考えず、自分で何かを見ることもせず、周りの空気を読んで「普通」でいることで、自分を正当化できること。そいつらが羊かなにかなら理解できないでもない。だけど、それを反省もせずに行うことの出来るメンタリティをぶらさげて、人間のつもりなのならお笑いだ。
幸いにして、ぼくは彼ら彼女らを軽蔑することが出来た。見下すことの出来る相手なら、どんなに戦局が不利でも戦い続けることが出来る。戦略的撤退も出来る。親や教師なんぞに援軍に入ってもらえないからと云って、追い詰められることもない。戦い方はひとつではない、と考えることも出来るようになる。死ぬほど苦しくても、死ぬぐらいなら殺してやろう、と思うことも出来るようになる。
だから、ぼくは生きている。
それが出来なかった人間が自殺を選んだからと云って、何の不思議があるのか。いじめられた人間は戦っているのだ。戦いにおいて勝ち目がないと悟ったら、自決するのもひとつの選択に過ぎないのだ。

もちろんそれは「普通」のひとには理解できないかもしれない。当然だ。「普通」のひとは、「普通」であろうとすることに安住するあまり、ちゃんとした人間としての思考力を身につけないまま大人になって、死んでいくのだから。
例えばそれは、そう、「テロを許さない」と叫びながら、テロを引き起こした要因についてはいっさい斟酌しないような、致命的な知性の欠如だ。
その意味で、「普通」の人間は、人間と云う呼び方に値しない。毛を刈って衣服を造ったり、喰ったりできないだけ、羊にも劣る。無駄な人生だし、犬死にだ(犬に失礼な言い草ではあるが)。

話の中で一般論を引き合いに出すことは、ぼくもする。でも、「普通」を論拠にして意見を述べることは、ぼくは絶対にしない。そうすると、他人を自殺に追い込んでものうのうと楽しく暮らしていける人間と同じ水準の動物に堕してしまう。
(同じ理由で、「童心に帰」ったりもしない。それは、無自覚な残酷さを自分に許すことだ)

いじめられて悩んでいて、自殺を考えているような子供に、出来ればこう伝えたい。
きみたちは、なぜいじめられるのか悩んでいる。自分のどこに原因があるのか、考えている。その一点において、きみたちをいじめている「普通」の連中より、遥かに人間らしい。
彼らを軽蔑しろ。自殺するくらいなら、彼らの破滅を願え。そして、彼らを滅ぼすことが出来るだけの悪辣さを身につけろ。
そのうえで、彼らを許容しろ。同じ人間だと思うから、不愉快になるんだ。彼らはきみたちが手を汚すに値するだけの存在ではないのだから。