Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

スケートアメリカ(女子)

つれあいがフィギュアスケートマニアなので、結構つられて放送を見る。

去年1年間結構いろんな大会を見た。その頃から、日本のマスコミのスタンスがとても興味深かった。なんと云うか、わかりやすい対立の構図とキャッチフレーズを造って視聴者の立ち位置を主導的に構築しようとするんだけど、対象が複雑すぎてうまくいかない、みたいな「あんた背中が煤けてるぜ」的どたばた感がおかしかった。

いま、例えばテレビのコメンテーターの言葉を主要な材料にして物事の評価を行う人間は、基本的な情報リテラシーが薄弱だ、と云う事がだんだん明らかになっている(ついでに云うとそう云う奴ほど喋りたがりで、見苦しさ倍増である)。でも、フィギュアスケートみたいな相対的に(人口に膾炙している、というレベルでの)情報が少ない競技では、マスコミによる世論主導が結構成功して、多くの人間がそこに右往左往させられた。
結果として残ったのは、1年をマスコミと「世論」に振り回されて無駄にした安藤美姫の姿と、(何年か前から見ていればその順当さは分かったはずなのに)まるで予想外だったかのように扱われたトリノオリンピックの人選および結果だったわけだ。

マスコミの旗振りに「テレビ好きな善男善女の皆さん」が乗せられて形成された「浅田真央トリノに」キャンペーンが失敗に終わって、ぼくは本当にほっとした。あそこで彼女がオリンピックに行っていれば、かなりの確率で潰されていただろう。半分は(安藤美姫を仮借なく襲った)オリンピックのプレッシャーに、残りの半分は「善男善女のみなさま」の失望の声に。彼女の昨年の高評価は、(とんでもない才能と能力は認めた上でも)新しくなったばかりでまだ不安定な採点基準に、「超々ジュニア級」とでもいうべき彼女の演技の質が噛み合った、という部分も大きかったと思う。あのレベルからさらに大きな伸びしろが期待できる、という点が浅田真央の凄さだと去年は感じていたので、白痴的な「トリノに出させろ」論には苦笑を超えて慄然たる思いを感じていた。

情報は手に入る。それを集めて、判断する事も出来る。そう云う時代になった。
そんな時代に充分なリテラシーを持てない「善男善女」の皆様を見ると、暗澹たる気持ちになる。そして、過剰な(時には事実さえ意図的に曲げた)「わかりやすさ」を提供する事で「善男善女」をコントロールし、自分の利権の確立に役立てようとするマスコミの悪辣さは、相当に気持ちが悪い。

とりあえず、今年もスケートブームは続き、世間の注目の高さも維持されるだろう。
今日の報道姿勢は、思うような展開をさせる事が出来なかった去年の戸惑いが残っている分、マスコミ側に去年の尊大さが見られないように感じた。
まして。今年は、報道する側の席に荒川静香がいるのだ。かつてマスコミにいいように翻弄され、それに勝ち抜き、最後にはマスコミをコントロールするだけの力を自ら身に付けた「氷の姫君」が。

さておき。
ミキティも真央ちゃんも、ほんとうに良かった。
安藤選手は自分を取り戻し、本来の自分の力を取り戻し、その上で以前は萌芽にとどまっていたいろんな要素を観客を魅了するだけの完成度にして観客に叩き付けてみせた。彼女が自信を持って戦いに挑むときの挑発的な笑顔は、身震いするほど魅力的だ。
真央の演技は、もう去年までの「天才少女のスーパーお遊戯」じゃなかった。剥き出しの才能をそのままさらけ出すような荒削りさは、もうない。村主章枝の観客を手玉に取るようなサイコロジー・コントロールにはもちろん及ばないけれど、既に確実にその世界に足を踏み入れたのが分かる演技だった。

シーズン開始。わくわく。