Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

仙台一高GJ!

特に意識している訳ではないのだが、学校を云々するようなエントリが多い。

ただ単に、こんなのとかこんなのとか、学生を主人公にした小説を読む機会が多かっただけなのだけれど。

高校の教育は本来そこで完結すべきもので、大学教育の前段階として位置づけられるべきものではないはず。だから、受験に有利なようにカリキュラムを組み替えるのはおかしい。これが大原則だと思う。
どうせ、高校程度の教育では学問と呼べる水準に届く訳ではない。だから、高校の存在意義はやはりそれなりに網羅性の高い「基礎的な教養」の提供にあるんだと思う(もちろんこれは普通科の話。工業高校や商業高校には別の、尊重されるべきミッションがある)。

今回の単位不足騒動が最初に判明したのは富山県の高校だったけれど、創立30年と少しぐらいの新しい高校なので、まぁ予備校化も仕方ないかな、とか思う。商売が苦しくなってきてどんな売り文句を使っても生徒を集めなければいけない地域2番手以下くらいの私立高校も、まぁ同情の余地はある。
でも、盛岡一高の名前が出たときに、すこし暗澹とした気分になった。

学校は小宇宙で、そこにしか通じない不合理なルールがどっさりある。そして、それは時間の経過とともにどんどん積み重なり、重みを増していく。本来たいした意味のないそうした重みの積層が醸し出す呪術的な雰囲気が、実は学校と云うものの一面の本質なのではないかと思う。それは予備校には(多分)ないものだ。
在籍しているうちは、その呪術性は基本的に鬱陶しいだけのものだったりする。でも、離れてしまうと懐かしく思い出すのはその部分だったりもする。
ぼくの出た高校とか、盛岡一高とかの創立100年を越すような高校は、この辺りの呪術性の堆積がそうとう厚い。時代の流れに伴う変化があっても、本質はそう簡単に揺るがないものだと思っていた。

恩田陸の小説に出てくる学校はどれもこれも伝統のある、古い学校だ。そうでないと、彼女のテーマには少しそぐわなくなってしまうのだ。そう云う学校が、安易に受験システムの変更なんかに迎合してカリキュラムを変えるようなことをした、となるとなんとなくがっかりしてしまう。目の前の大学受験より、受け継がれた伝統の方が大事じゃないのか?
(誤解されたくないので云うと、ぼくは神戸で設立2年目の中学に通っていた事もあるので、新設校にみなぎる進取の空気の気持ちよさも知っている)

こういう事を云う背景には、高校の授業なんかそもそも大学受験にそんなに役に立つのか、という個人的な思いがある。ぼくが出たのは一応宮城県一の受験校と云われる(とか云うとどこだかばれてしまうが)高校だが、教師たちはじつにのびのびと、したいような授業をしていた記憶しかない。もちろんその殆どは素晴らしい授業だった(寝ていないときはちゃんと聴いていた)。ただ、およそ「大学に受かる」ための授業なんかじゃなかったと思う。
高校が生徒に媚びてどうする。生徒も生徒だ。学校が終わって飯を食っても、その後で5時間や6時間は勉強する時間はあるだろう。受験勉強なんかは学校に期待しないでその時間に自分でやりたいようにやれ(いや、おいらあんまりやらんかったが)。

そうこうするうちに、実は仙台一高でも単位不足が発生していた事が判明した。それもこんな理由らしい。要するに、学校教師なんかが指導要領に基づいて教えたところでまず確実に意義のある内容にならない教科を切り捨てて、その時間に体育をやっていたらしい。

さすがだ。仙台一の老舗(って云い方もへんだが)だけある。まったくぶれがない。そう、高校は高校レベルでの教育を、体育も含めて全人格的に行うべきだ。プロテスタント功利主義におもねる必要なんてない。
GJ。

しかし上に挙げた朝日の記事も笑える。「受験校が体育の時間を増やす」ことがあり得る、というのをまるで理解できないようだ。さぞやクラスメイトがみんな受験に血眼になるような高校を出ているのだろう。
「心身ともに健康な、バランスを取った教育実践を行いたい」と云うのがどうして苦しい言い訳に見えるのだ。教育者としてまともな発想だろう(いや、だからルール違反を許容すると云う訳ではないが)。