Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

おとなになるのだ (「駆けてきた少女」東 直己)

駆けてきた少女―ススキノ探偵シリーズ

駆けてきた少女―ススキノ探偵シリーズ

  • 作者: 東 直己
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2006/10
  • メディア: 文庫


いったい東直己は何を書きたいのだ。
名無しの「俺」はやくたいもないことばかりぐだぐだ並べているし。

と云うのは、このシリーズのファンとして、特に悪口にならない。
ただ、本当に「何が書きたいのか」ということが知りたくなったりした。
いや、もちろん、この質問にすべての作家が答えられる訳ではないし、簡単に答えられればそもそも小説なんて云うまだるっこしいかたちを取る必要がないかもしれないのだけど。

北海道警の腐敗と各利権の癒着については、このひとの小説の基調低音としてある。腐敗構造そのものは実際に相当根深いらしいし、どうにもリアリティがある書きぶりが読んでいて少し恐ろしくもある。
ぼくは「幼児虐待の真実を訴えるためにハードボイルドを書き続ける弁護士」アンドリュー・ヴァクスのファンだったし(ファンを止めた訳じゃない。文庫の新刊が出ないだけだ)、そういう小説の書き方だってある。でも、東直己はそれを訴えたいがために小説を書いている訳では、やっぱりないだろう。

「俺」はシリーズ第1作の時点から饒舌で、ひねくれたユーモアをまき散らしていて、ナルシスティックだった。なんとなくハードボイルドってそんなものじゃないか、という気も正直するけれど、でも文庫の裏表紙に「軽快ハードボイルド」みたいな書かれ方をするのはそう云う「俺」の行動が与える印象に負う部分が大きかった(起きる事件そのものはそんなに軽くはない)。でも、「俺」はどんどん偏屈になり、時代からはぐれていく。饒舌も繰り言臭くなる。それは「俺」が20代の頃の、世間に背を向けて斜に構えた姿勢とはどこか質的に違うものだ。
当然だ。歳を取ったのだ。歳を取ると、おとなになるのだ。
そこから、逃げていないのだ。期待通りだ。
そしておとなは、戦うのだ。その戦法がたとえぶざまでも、姑息でも。

どうもこの話は他の2編の長編とリンクしてひとつの物語として成立しているらしく、残りの2つを読まないとちゃんと落ち着かないらしい。と云う訳で、読むことになるんだろう(そのうち1冊はどうやらバカ高くて探し辛いハルキ文庫のようだ)。
でも、ぼくにとってはこの話は大きな物語のひとつのピースではなく、ひとつの物語として読めた。ちゃんとおとなになった(これは褒め言葉でも皮肉でもなく、身も蓋もない事実だ。ひとは努力もなにもしなくても古くなればどこかしらおとなになるということ)「俺」を見ることが出来た訳だし。

でもなんか、育ちが良くて、背伸びして、どこかけなげな少女というのに中年男はなんでこう弱いんだろう。気持ちはとても分かるんですけど、景山民生の「トラブル・バスター〈3〉国境の南」を少し連想した。