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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

わかりやすさと王様たち

実際にものを作らない(完成物の生産に直接触れない)人間の仕事は、多くの部分がものごとを「わかりやすく」することに費やされる。本当はそのプロセスで「要素を集める」→「重みづけをする」→「並べ替えて文脈をつくる」といった作業をして、最後に「わかりやすくする」というのが来るのだけど。

成果物として求められるのは最後の「わかりやすく」したもの。でも、作業の中で本当に価値があるのは、その手前までに行われる各プロセスの内容だったりする。
各プロセスできっちりした作業をしていないと、そのあとのプロセスは曖昧な、または間違った前提に立って行われることになる。作業が進めば進むほど、前のプロセスでのぶれや精度の低さはデフォルメされる。結果、出来上がるものは最悪「間違った」ものになる。

問題なのは、それまでのステップでどれだけの作業を積み重ねてきたか、と、成果物の「わかりやすさ」の間に相関関係が成立していないこと。
考慮に入れる要素が多ければ多いほど、その相互関係は複雑になる。複雑になれば、有効な文脈たり得る仮説の数はそれだけ増える。取捨するにあたっての選択肢も増えるし、ある仮説を有効・重要な文脈としてとりあげるための考察も量的に増える。

要するに、わかり辛くなる。もしくは、わかりやすくするのが難しくなる。

逆に、最初にわかりやすいストーリーをつくっておいて、それに適合する要素を集め、都合に合わせて重み付けをして文脈を構成するのは簡単だ。このほうが、成果物は「わかりやすい」ものになる。

でも、どちらの作業で導き出された成果物が、受け取る側にとって有効である可能性が高いだろう?(1)

ひたすら「わかりやすい」ものを求めるのが、強烈な風潮として、ある。
でも、「わかりやすさ」は、本当は本質とは関係ない。

「わかりやすく」する作業は、(それが他のプロセスとは切り離された作業である、という意味で)一種のぺてんだ。後ろにある各プロセスの複雑さを、覆い隠すものだから。
「わかりやすさ」の背後に、ほんとうに価値のあるものが存在するかどうかを見抜くためには、成果物を受け取る側が「わかり辛い」領域に踏み込んでいく必要がある。

いまの世の中は、その「わかり辛さ」を罪悪として断罪する王様だらけだ。

業者に「わかりやすさ」を求めるクライアント。
部下に「わかりやすさ」を求める上司。
商品に「わかりやすさ」を求める消費者。

世の中にどっさりいるこれらのひとたちは、要するにぺてんに進んでかかろうとする裸の王様に見える。
少なくとも、「わかりやすさ」に重きを置いているうちは、それがぺてんかどうかを見抜くことはできない訳だし。

知人の物理学者が、ニセ科学と戦っている
彼はいろんな意味でとても戦闘力の高い人間なのだけれど、それでもそれなりに苦戦している(まぁ、相手がでかいので楽な戦いにはならないし、もちろんそのことは彼も承知の上なのだけれど)。

ニセ科学商品を信じてしまう人間が増えているとすれば、こういう「王様」の増加とも関係しているのでは、とか思う。

「俺にも(あたしにも)分かるように、簡単に説明しろ。さもなくば聴かないし、理解しないぞ。俺は(あたしは)努力なんかしないからな」という王様。

もちろん、こういう王様たちをターゲットにビジネスは動く。
成果物さえわかりやすければ、その前のプロセスは単純化した、都合のいいものでいい(「水からの伝言」その他、ニセ科学なんかのパターン)。
成果物さえわかりやすければ、その前のプロセスはブラックボックスでいい(Googleなんかのビジネスモデルはこっちじゃないかと思うんだけど)。

そうして、ビジネス技術の主眼は、ひたすら「わかりやすく」するテクニックに偏っていく。

王様たちは、わかりやすい(でも使い物になるかどうかまではわからない)ものに囲まれてご満悦だ。それは怠慢の結果としては、滑稽と云うよりもむしろ無惨な光景。
でも、お金のほしいぼくたちは、仕方なくひたすら王様たちに「わかりやすい」ものを提示し続けるしかないんだけれど。

(1)
いやもちろん、実際にはどちらの手順も使う、というか文脈って結構元要素を必死で眺めているうちにひらめくものだったりするので、作業は綺麗にステップを追うような流れにはなかなかならないんだけど。
だからこそ、「検証」ってプロセスが必要になるわけで。

でもお金を持っている王様たちには、「検証」に対するコストの必要性を理解しない輩が多いんだよね。